大学生の論文執筆法


石原千秋による『教養としての大学受験国語』、『大学受験のための小説講義』に続く、大学生関連「ちくま新書」三部作のとりは、『大学生の論文執筆法』。これが、一般人にとっても、滅法面白い。


大学生の論文執筆法 (ちくま新書)

大学生の論文執筆法 (ちくま新書)


石原千秋といえば、小森陽一とともに『漱石研究』(翰林書房)の編集をしている名コンビだとばかり思っていた。ところが、「、」に関する箇所で次のように書いているのに驚いた。

作家では芥川龍之介の文章が「、」が多すぎて読みにくいし、最近では小森陽一の文章が「、」だらけでものすごく読みにくい。昔はあんなではなかったのだが・・・、(中略)・・・
それよりも、近年の小森陽一がほとんど本を出すたびごとにと言っていいくらい、「パクリ」を指摘されたり抗議を受けたりしているのは、超一流の研究者だけに、残念でならない。政治的なことも含めて(それが大切な仕事であることはたしかだが)、いろいろな仕事を引き受けすぎ、そして書きすぎだからなのではないかと思う。小森陽一とは個人的なチャンネルはすでに失われているし、誰かが一度はきちんと言っておかねばならないことだと思うので、あえてここで書いておく。(p.038)

村上春樹論 『海辺のカフカ』を精読する (平凡社新書)

村上春樹論 『海辺のカフカ』を精読する (平凡社新書)

漱石研究』創刊号(1993年)以来、二人の編集で18号まで続いていた*1が、そんなことになっているとは、思わなかった。たしかに、拙ブログ2006年5月21日でとりあげた小森陽一の『村上春樹論』(平凡社新書)はひどかった。この本以外にも、最近、小森氏の著書は多いので心配していたところだ。石原氏が、かつての同志なればこそ小森氏への諫言とみた。



本書は二部構成になっている。ます「第一部 秘伝人生論的論文執筆法」から、面白いところを引用しておこう。「批評と研究の違い」について。

批評は著者の名前に記号論的価値があるのに対して、研究は肩書きに記号論的価値があるとでも言えそうだ。「柄谷行人」を近畿大学教授の肩書きに正当性を求めて読む読者はいないだろう。しかし、「石原千秋」の文章ならば、早稲田大学教授の肩書きがなければ大した正当性は認められないだろう。これは無名の批評家にとっても事情は同じで、批評は固有名詞の責任において書かれるというほどの意味なのである。どんなに学問的な装いを施しても、批評は最終的には批評家の好みによってものを言っていいジャンルなのだと思う。つまり、批評においては「私はこう思う」という文体が許されるのだ。(p.075)


私からみれば、「石原千秋」もブランド名であり、実際2005年7月16日(1年前の同じ日だ)、拙ブログでとりあげた『『こころ』大人になれなかった先生』(みすず書房)は、批評でもあり、研究でもあるという素晴らしい内容だった。


『こころ』大人になれなかった先生 (理想の教室)

『こころ』大人になれなかった先生 (理想の教室)


毎月500万円の赤字を出すといわれる「文藝雑誌」の存在意義は、年に一度の奇跡が起きて、30万部売れることでペイできる、などの指摘はなるほどと合点がいく。しかし、第一部の最も注目すべき点は、高田里惠子『文学部をめぐる病』の書評を、斎藤美奈子石原千秋を並べて、比較しているところにある。書評文の書き方の手本として、優れた分析になっている。もちろん、総合点斎藤美奈子9点に対して、石原千秋3点という自らの反省(恥)をさらしているところなど、学ぶべし。



「第二部 線を引くこと」は、副題に「たった一つの方法」とあるように、保守派論客・佐伯啓思*2フェミニズム学者上野千鶴子*3、早世した前田愛*4、カルスタの成田龍一*5などの文章をテキストとして、「線を引くこと」の本質的意味を引き出している。杉田敦『境界線の政治学』(岩波書店)を参照しながら、「国境」という線について。


境界線の政治学

境界線の政治学

線を引くに当たっては、線を引くためにあらかじめ与えらえた根拠があるわけではなく、線を引いた後に、事後的に根拠が作られるにすぎないということである。(p.211)

杉田敦が言うように政治が「境界線を引くゲーム」だとすれば、研究もまったく同じだと言っておこう。それが、「たった一つの方法」なのである。(p.251)


『大学生の論文執筆法』というタイトルで、学生に語りかけながらも、石原千秋のテキスト批評=研究になっている、読むべき本だ。


学生と読む『三四郎』 (新潮選書)

学生と読む『三四郎』 (新潮選書)