倫敦塔・幻影の盾


現在刊行されている最新の『漱石全集』は、直筆原稿主義による編集方針であり、われわれ読者にとって、漱石の自筆原稿をもとにしているから、最も信頼のおける全集である、と考えていた。


倫敦塔・幻影の盾 (新潮文庫)

倫敦塔・幻影の盾 (新潮文庫)


最近、『幻影の盾』『薤露行』『趣味の遺伝』とロマンティックな純粋恋愛三部作を、新潮文庫版『倫敦塔・幻影の盾』で読んだ。美文調の文体は難解であり、短編としては比較的時間を要した。

漱石は『幻影の盾』の序に「一心不乱と云う事を、目にみえぬ怪力をかり、縹緲(ひょうびょう)たる背景の前に写し出そうと考えて、この趣向を得た。」と記載されている。

また、『薤露行』でも「マロリーの写したランスロットは或る点に於いて車夫の情婦の様な感じがある。この一点だけでも書き直す必要は充分あると思う」と書き、エレーンとランスロットの純愛を謳いあげている。

『趣味の遺伝』では、日露戦争で戦死した「浩さん」と彼の墓に参る小野田の令嬢の関係を、「エレーンがランスロットにはじめて逢う、この男だぞと思い詰める、矢張り父母未生以前に受けた記憶と情緒が、長い時間を隔てて脳中に再現する。」と、趣味(恋愛)の遺伝として成就することが、「一心不と云う事」の趣旨に通じる。

よって、この短編三部作が、ロマンティックな純粋恋愛三部作と呼びたいわけだが、さて、問題は『薤露行』の本文テキストにあった。



それは、現在終刊となっている『漱石研究』(翰林書房)の第3号で、編集者小森陽一石原千秋の二人が聞き役となり、山下浩が『漱石全集』(岩波書店)の編集について、「『漱石全集』をめぐって」と題して、様々な問題を指摘している。


漱石全集〈第9巻〉心

漱石全集〈第9巻〉心


岩波新全集の編集方針は、徹底性を欠いているということ、漱石の場合比較的多くの自筆原稿が残されている。それをもとに、初出誌・初出新聞、単行本などを考慮して校訂するという方針は、果たして、文学全集に相応しいのか、という根本的な疑問を山下氏は、テクスト主義者の二人に挑発的な議論的を試みている。

書簡や日記などは、当然、原資料に基づいて良いわけだが、文学作品は、原稿→印刷→装丁→造本(単行本)となり、読者は新聞または雑誌で読むか、単行本化されてから読むか、という問題がある。『岩波全集』は、漱石没後50年記念の1965年・菊判、1974年版と1984年版は重版だが、自筆原稿を主体としていなかった。それが、1993年版では、「自筆原稿」主義とも云うべき、全集編纂の方針転換があった。2002年の重版も基本的姿勢は同じである。

さてここで、全集第二巻の『薤露行』に戻ろう。山下氏の言説を引用する。

『薤露行』一四八ページ十二行では、底本にした「中央公論」の初出に一字が抜けているということで、全集でもそのまま空白になっている。純粋な翻刻ならそれでもいいのでしょうが、他の部分とのバランスを考えるとこれは解せない。この空白は、編者の責任において元あったと信じられるものでなんとしても埋める努力をし、作品として読めるようにする義務がある(p.186『漱石研究』第3号)


実際に、全集とする以上、作品の文章に「空白」をそのままにしておくことは、常識的にも考えられない。『漱石全集』第2巻の『薤露行』を見ると、148頁12行に「空白」があり、〔一字欠〕と注記されている。


全集本は「高く頭の上に げたる冠の光の下には・・・」となっており、山下氏は初出誌「中央公論」の所蔵先の実物を調べると「捧」の字が印刷されていると指摘し、「このような基礎調査を行うべき」であり、更に、「ルビの振り方の一貫性の欠如」にも言及している。ちなみに単行本『漾虚集』では、該当箇所は「抑えたる冠」となっており、小生が読んだ新潮文庫版では、「高く頭の上に」が欠落して「抑えたる冠」となっている。


このようにみれば、本文=テクストの確定の難しさが浮上する。更に、山下氏が指摘する「ルビ」の問題、岩波全集版では、自筆原稿に拠るとしている以上、初出時の「総ルビ」とは異なった「ぱらルビ」が多く、どこに基準を置くのか、判然としない。


夏目漱石全集〈7〉 (ちくま文庫)

夏目漱石全集〈7〉 (ちくま文庫)


先日、全集版で「満韓ところどころ」を読むと、漱石の原稿が残っていないので、初出の「朝日新聞」に拠り「総ルビ」の文章になっていた。つまり、漱石の原稿が小説や小品として公表された作品全てについて残っているなら、「自筆原稿主義」は意義ある編集方針だが、現状の岩波版全集をみる限り、「総ルビ」あり「ぱらルビ」ありで、中途半端と言わざるを得ないようだ。


全集編集の難しさ、本文(テクスト)確定の意義はもっと強調されてもいいだろう。


ちなみに、漱石直筆原稿を複製した本が出版されている。


直筆で読む「坊っちやん」 (集英社新書 ヴィジュアル版 6V)

直筆で読む「坊っちやん」 (集英社新書 ヴィジュアル版 6V)


このような原稿による出版は「漱石」だから成立するわけで、ワープロでの原稿が一般となったいま、テクストとは、プリントアウトしたものではないはずだ。



山下浩編集『漱石新聞小説復刻全集』『漱石雑誌小説復刻全集』『漱石評論・講演復刻全集』

漱石新聞小説復刻全集 (1)

漱石新聞小説復刻全集 (1)

漱石雑誌小説復刻全集 (1)

漱石雑誌小説復刻全集 (1)