中世の書物と学問


また、小川剛生著『中世の書物と学問』(山川出版社,2009)によれば、


中世の書物と学問 (日本史リブレット)

中世の書物と学問 (日本史リブレット)

強烈な個性と学問好きで知られる藤原頼長は、自らの蔵書に意を用いた人である。台記の天養二年(1145)四月二日条には、大炊御門高倉邸に文庫を建造したことが記されている。(p.044)

頼長の文庫は主人と運命を共にしたと思われるが、当時の文庫の構造や蔵書管理について、これほど詳しく書いた文献は空前絶後である。(p.045)


つまり、藤原頼長とは、読書家であると共に、学者・蔵書家であったわけで、今日でいえば、書物オタクと表現できよう。棚橋光男によれば「当時の日本社会の最前線ー最近はやりの言いまわしを使えば、《知の最前線》で把握していた」*1と評価されるほどであった。


その頼長に経学を指導したのが、信西であり、保元の乱での対立は、悲劇にほかならない。平治の乱で他界する信西には、のちに『通憲入道蔵書目録』が編纂されている。


頼長の『台記』、信西の『通憲入道蔵書目録』に記載されている漢籍には、宋との関係性が反映されている。中世漢籍学者の代表たる二人が、政治の世界で、武装した源氏・平氏の武士達に殺害されるのは、歴史のアイロニーというべきか。


NHK大河ドラマ平清盛」には、当時の学問や読書の様子が詳しく描かれていないけれど、知識人の蔵書が戦乱の中で消滅したことは、別の視点からみることを要請しているようだ。



後白河法皇 (講談社選書メチエ)

後白河法皇 (講談社選書メチエ)

*1:棚橋光男著『後白河法皇』(講談社,1995)p.53