猫と漾虚集
漱石の作家デビューは『吾輩は猫である』であり、第一回が「ホトトギス」明治38(1905)年1月に掲載され、その反響の大きさ故、続篇を書き連載ものとなって行ったことは、あまりにも有名で、いまさら敢えて取り上げることでもないだろう。
周知のことであるが、「猫伝」として短編を書いた漱石は、その原稿を高浜虚子にみせると、大幅に添削が入り、タイトルも冒頭の言葉、「吾輩は猫である」からとられた。当時参加していた山会の席で、短編としての「猫」を高浜虚子が朗読すると、大変評判が良かったらしい。
- 作者: 夏目漱石
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1990/04/16
- メディア: 文庫
- 購入: 8人 クリック: 133回
- この商品を含むブログ (79件) を見る
しかし、漱石は、同じ年の『帝国文学』1月号に「倫敦塔」を、『學燈』1月号に「カーライル博物館」をほぼ同時に掲載しており、『猫』よりも、後に『漾虚集』にまとめられた幻想的な作品群に愛着があったようだ。
- 作者: 夏目漱石
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1990/04/16
- メディア: 文庫
- クリック: 2回
- この商品を含むブログ (15件) を見る
ちなみに、『吾輩は猫である』が掲載された二年余りの期間に書かれた原稿は、以下のとおりで、恐るべきエネルギーに満ちている。才能の爆発であった。これらの作品を発表された順に読むと、漱石の作家的出発の躁的状態がみえてくる。
1905(明治38)
- 1月 「吾輩は猫である(以下「猫」)」(1)
- 「倫敦塔」(『帝国文学』)
- 「カーライル博物館」(『學燈』)
- 2月 「猫2」
- 4月 「猫3」 「幻影の盾」(『ホトトギス』)
- 5月 「琴のそら音」(『七人』)
- 6月 「猫4」
- 7月 「猫5」
- 9月 「一夜」(『中央公論』)
- 10月 『猫・上篇』刊 「猫6」
- 11月 「薤露行」(『中央公論』)
1906(明治39)
- 1月 「猫7」「猫8」
- 「趣味の遺伝」(『帝国文学』)
- 3月 「猫9」
- 4月 「猫10」
- 「坊っちゃん」(『ホトトギス』)
- 5月 『漾虚集』刊
- 8月 「猫11」
- 9月 「草枕」(『新小説』)
- 10月 「二百十日」(『中央公論』)
- 11月 『猫・中編』刊
- 「文学論、序」(『読売新聞』)
1907(明治40)
- 1月 「野分」(『ホトトギス』)
- 『鶉籠』刊
- 3月 『朝日新聞』入社決意
- 4月 「京に着ける夕」(『大阪朝日新聞』)
- 「文芸の哲学的基礎」(東京美術学校にて講演)
- 5月 『文学論』(大倉書店)刊
- 『猫・下篇』刊
この二年余の創作量は、ただ事ではない。イギリス留学時代の勉強成果をまとめ大学で講義した『文学論』*1も上梓している。
- 作者: 夏目漱石
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2007/02/16
- メディア: 文庫
- 購入: 1人 クリック: 7回
- この商品を含むブログ (20件) を見る
- 作者: 夏目漱石
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2007/04/17
- メディア: 文庫
- この商品を含むブログ (11件) を見る
漱石のこの時期の作品は、美文にこだわりがあるが、全て違う文体で書かれている。内容も一篇づつ異なっている。美文的世界の終りを告げ、集大成的な作品が朝日新聞入社第一作『虞美人草』である。藤尾という新しい女性の創出、自分の意思により結婚を選択するという、美貌と才能に恵まれた女性だが、漱石の意図は倫理的制裁として、藤尾を殺すところにあった。
- 作者: 夏目漱石
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1990/04/16
- メディア: 文庫
- クリック: 6回
- この商品を含むブログ (19件) を見る
演劇的構成による、ラストのカタストロフは圧巻だが、漱石自身が新聞連載という体験に相当のエネルギーを費やしたようだ。三越の藤尾浴衣の販売など、世評としては評判を呼んだが、小説としては、失敗作と云われる。以後、漱石は美文調の小説を書いていない。
意識の流れを描いた特異な体験を想像力で持続させた中編『坑夫』を経て、『三四郎』以後の安定しつつも、読みの多様性を挑発させる新聞小説作家として、金銭的な生活も落ち着いて行く。
後期三部作のあと、漱石は自身の帰国から作家になる時期を『道草』に再現している。
- 作者: 夏目漱石
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1990/04/16
- メディア: 文庫
- 購入: 1人 クリック: 16回
- この商品を含むブログ (27件) を見る
近々、死後100年を迎えるが、21世紀になっても相変わらず漱石関連書籍は多い。
率直に云って、国文学者の書いた「漱石論」は面白みに欠ける。漱石論は、小宮豊隆による「則天去私」神話の捏造説が、長い間、斯界を支配していた。風穴を明けたのが江藤淳であり、斬新的な「漱石論」は、桶谷秀昭、蓮實重彦、柄谷行人へと続き、小森陽一・石原千秋に至る。
- 作者: 江藤淳
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1979/07/27
- メディア: 文庫
- 購入: 1人 クリック: 9回
- この商品を含むブログ (14件) を見る
- 作者: 蓮實重彦
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2012/09/11
- メディア: 文庫
- 購入: 1人 クリック: 6回
- この商品を含むブログ (8件) を見る
- 作者: 柄谷行人
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 2001/08/01
- メディア: 単行本
- 購入: 2人 クリック: 15回
- この商品を含むブログ (11件) を見る
- 作者: 石原千秋
- 出版社/メーカー: 青土社
- 発売日: 1997/11/01
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログ (2件) を見る
この半年余り多くの漱石論を読んできて、上記の漱石デビュー時から作品を分析し、最も説得的であったのは、実作家でもあった大岡昇平『小説家・夏目漱石』であった。
- 作者: 大岡昇平
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 1992/06
- メディア: 文庫
- クリック: 1回
- この商品を含むブログ (5件) を見る
*1:「文学論・序」は前年11月「読売新聞」に掲載された。