猫と漾虚集


漱石の作家デビューは『吾輩は猫である』であり、第一回が「ホトトギス」明治38(1905)年1月に掲載され、その反響の大きさ故、続篇を書き連載ものとなって行ったことは、あまりにも有名で、いまさら敢えて取り上げることでもないだろう。

周知のことであるが、「猫伝」として短編を書いた漱石は、その原稿を高浜虚子にみせると、大幅に添削が入り、タイトルも冒頭の言葉、「吾輩は猫である」からとられた。当時参加していた山会の席で、短編としての「猫」を高浜虚子が朗読すると、大変評判が良かったらしい。


吾輩は猫である (岩波文庫)

吾輩は猫である (岩波文庫)


しかし、漱石は、同じ年の『帝国文学』1月号に「倫敦塔」を、『學燈』1月号に「カーライル博物館」をほぼ同時に掲載しており、『猫』よりも、後に『漾虚集』にまとめられた幻想的な作品群に愛着があったようだ。


倫敦塔・幻影(まぼろし)の盾 他5篇 (岩波文庫)

倫敦塔・幻影(まぼろし)の盾 他5篇 (岩波文庫)


ちなみに、『吾輩は猫である』が掲載された二年余りの期間に書かれた原稿は、以下のとおりで、恐るべきエネルギーに満ちている。才能の爆発であった。これらの作品を発表された順に読むと、漱石の作家的出発の躁的状態がみえてくる。


1905(明治38)

  • 1月  「吾輩は猫である(以下「猫」)」(1)
  • 「倫敦塔」(『帝国文学』)
  • 「カーライル博物館」(『學燈』)
  • 2月  「猫2」
  • 4月  「猫3」 「幻影の盾」(『ホトトギス』)
  • 5月  「琴のそら音」(『七人』)
  • 6月  「猫4」
  • 7月  「猫5」
  • 9月  「一夜」(『中央公論』)
  • 10月  『猫・上篇』刊    「猫6」
  • 11月  「薤露行」(『中央公論』)

1906(明治39)

  • 1月  「猫7」「猫8」
  • 「趣味の遺伝」(『帝国文学』)
  • 3月  「猫9」
  • 4月  「猫10」
  • 坊っちゃん」(『ホトトギス』)
  • 5月  『漾虚集』刊
  • 8月  「猫11」
  • 9月  「草枕」(『新小説』)
  • 10月  「二百十日」(『中央公論』)
  • 11月  『猫・中編』刊
  • 「文学論、序」(『読売新聞』)

1907(明治40)

この二年余の創作量は、ただ事ではない。イギリス留学時代の勉強成果をまとめ大学で講義した『文学論』*1も上梓している。


文学論〈上〉 (岩波文庫)

文学論〈上〉 (岩波文庫)

文学論〈下〉 (岩波文庫)

文学論〈下〉 (岩波文庫)


漱石のこの時期の作品は、美文にこだわりがあるが、全て違う文体で書かれている。内容も一篇づつ異なっている。美文的世界の終りを告げ、集大成的な作品が朝日新聞入社第一作『虞美人草』である。藤尾という新しい女性の創出、自分の意思により結婚を選択するという、美貌と才能に恵まれた女性だが、漱石の意図は倫理的制裁として、藤尾を殺すところにあった。


虞美人草 (岩波文庫)

虞美人草 (岩波文庫)


演劇的構成による、ラストのカタストロフは圧巻だが、漱石自身が新聞連載という体験に相当のエネルギーを費やしたようだ。三越の藤尾浴衣の販売など、世評としては評判を呼んだが、小説としては、失敗作と云われる。以後、漱石は美文調の小説を書いていない。

意識の流れを描いた特異な体験を想像力で持続させた中編『坑夫』を経て、『三四郎』以後の安定しつつも、読みの多様性を挑発させる新聞小説作家として、金銭的な生活も落ち着いて行く。

後期三部作のあと、漱石は自身の帰国から作家になる時期を『道草』に再現している。


道草 (岩波文庫)

道草 (岩波文庫)


近々、死後100年を迎えるが、21世紀になっても相変わらず漱石関連書籍は多い。


率直に云って、国文学者の書いた「漱石論」は面白みに欠ける。漱石論は、小宮豊隆による「則天去私」神話の捏造説が、長い間、斯界を支配していた。風穴を明けたのが江藤淳であり、斬新的な「漱石論」は、桶谷秀昭蓮實重彦柄谷行人へと続き、小森陽一石原千秋に至る。


決定版 夏目漱石 (新潮文庫)

決定版 夏目漱石 (新潮文庫)

夏目漱石論 (講談社文芸文庫)

夏目漱石論 (講談社文芸文庫)

増補 漱石論集成 (平凡社ライブラリー)

増補 漱石論集成 (平凡社ライブラリー)

反転する漱石

反転する漱石


この半年余り多くの漱石論を読んできて、上記の漱石デビュー時から作品を分析し、最も説得的であったのは、実作家でもあった大岡昇平『小説家・夏目漱石』であった。


小説家夏目漱石 (ちくま学芸文庫)

小説家夏目漱石 (ちくま学芸文庫)

*1:「文学論・序」は前年11月「読売新聞」に掲載された。