憂鬱なる漱石


憂鬱なる漱石

憂鬱なる漱石


小林敏明著『憂鬱なる漱石』(せりか書房,2016)は、久々に出版される500頁超えの本格的な評論になっている。著者が、『柄谷行人論』(筑摩書房,2015)を上梓しており、読了済みなので、近代日本思想史の視点から漱石を読み解くという小林氏の漱石論は期待させるものがある。


柄谷行人論: 〈他者〉のゆくえ (筑摩選書 111)

柄谷行人論: 〈他者〉のゆくえ (筑摩選書 111)


序論として「思想としてのメランコリー」が配置されている。小林氏の履歴によれば、「メランコリー」の専門的研究をドイツにあって、2015年までライプツィヒ大学に在任した、いわば国文学分野以外からの漱石論である点に、新鮮さを覚える。


この国の近代がたどり着いた地点、「貧富の差を正当化する巨大で匿名の経済システム」の前で、「窒息状態にある人々にとっての最後の・・・脆弱な狐塁」それが「憂鬱」であり、「この息苦しい事実」を近代の始めにおいて予見したひと、それが漱石であった。「彼の作品はすべてこの生々しい苦闘の軌跡」であったことを、小林氏は、『三四郎』から『明暗』を解読しながら、読者とともに「苦闘の軌跡」をたどることになる。

目次は著者の語りを表している。

  • はじめに 思想としてのメランコリー
  • 第1章 トライアングル・モデル―『三四郎
  • 第2章 転調する内省―『それから』
  • 第3章 自意識か悟道か―『門』
  • 第4章 内向的人間の成立―『彼岸過迄
  • 第5章 現実を失う過敏―『行人』
  • 第6章 告白と負い目―『こころ』
  • 第7章 演出される自己―『道草』
  • 第8章 関係が関係する―『明暗』

さて、漱石論の新しい展開になっているだろうか。


何よりも、「則天去私」神話をばっさり、斬っていること。小説その他残された記録に「則天去私」なることばの記載がない。弟子たちが木曜会で、師・漱石からそのようなことばを聞いたというのみで、漱石が「則天去私」に収斂するような作家ではないことが、『明暗』で証明されている。小宮豊隆など弟子による神話化がなされたことが、その後の漱石近代文学上の<神話>に昇華させることになってしまった。


漱石の思ひ出――附 漱石年譜

漱石の思ひ出――附 漱石年譜


もうひとつは、「神経衰弱」の解釈である。この「神経衰弱」や、鏡子夫人による『漱石の思ひ出』から、精神医学的な様々な解釈がなされ、あたかも重病人であるかの診断に異和感を抱いていたが、著者・小林敏明は、精神医学的に云う病人が継続して小説を書き続けることは、あり得ないと言う。

どんなにイライラが昂じて癇癪の激しい時期であっても、漱石がいわゆる「見当識」とりわけ自分が何をしているかという自覚を失ったことはない(297頁)

どのような診断がなされようと、要は漱石精神病理学という不確かで狭い檻のなかに無理矢理押し込めるのではなく、あくまで漱石というひとりの人間に即してその心理や思想を探ることである。(304頁)


漱石入門 (河出文庫)

漱石入門 (河出文庫)



例えば、石原千秋著『漱石入門』(河出文庫,2016)は、タイトルどおり入門書だと思うと勘違いする。『漱石記号学』(講談社,1999)をもとに加筆したもので、きわめて専門的な漱石論であり、入門書ではない。


反転する漱石 増補新版

反転する漱石 増補新版


石原千秋は、もう一冊『反転する漱石』(青土社,2016)の旧版に序文「漱石ジェンダートラブル」を付加し、いわば新装版的な「増補新版」を復刊している。いづれも一定の評価を得ているものであり、石原氏の漱石論は、基本はテクスト論だが、明治期の同時代本による実証(傍証)を固めている。漱石テクスト解読の専門的な研究書としては、現在石原氏は先頭にいることは間違いないだろう。


しかしながら、石原氏の『漱石入門』に較べて、タイトルが難解そうな『憂鬱なる漱石』が読みやすいのは一般読者を想定し、梗概を示しながら解説をするという丁寧な方法をとっているので、一般読者向けになっている。

従って、小林敏明『憂鬱なる漱石』は、入門書として読むことも可能だ。漱石研究史を踏まえた、漱石像を提示しているし、どのように漱石論が構築されてきたかをも押さえている。新しい点は何かといえば、「思想としてのメランコリー」という大きな視点に立ち、漱石を近代思想史に位置づけていることだろう。


アレハンドリア アリス狩りV

アレハンドリア アリス狩りV


なお、高山宏の新著『アレハンドリア アリス狩り5』(青土社,2016)の「シャーロック・ホームズマニエリスム」の項を読んでいて、

漱石事典」(翰林書房)にマニエリスト漱石の項目を幾つか入れさせてもらったが、どういう反応がでるか。(101頁)


を見つけた。翰林書房漱石生誕150年記念出版として『漱石事典』を発売すべく、編集作業が進捗しているようだ。例によって、高山宏といえば「マニエリスム」だから、漱石マニエリスムを見いだす根拠など、興味が湧いてきた。早い出版を期待したい。




【追記】(2016-10-30)
高山宏著『アレハンドリア』の「テオリアの始まりは終わり 漱石『文学論』管見」に、

『文学論』の隠されたキーワードは「理論」であり、あからさまなキーワードは「解剖(する)」である。(146頁)

広く視覚文化論者として突出した漱石の活動全体の中に、特徴的きわまる一局面として彼の「理論」好きを位置付ける必要がある。『吾輩は猫である』の観相術と探偵批判、『草枕』におけるズバリ「距離」をいう「非人情」のピクチャレスク美学論、『虞美人草』『それから』に狂い咲く植物偏愛、『彼岸過迄』以下の文化の「見える化」とそれにとり残された不可視な「不気味なもの」の漸時の露呈・・・・・といった漱石視覚論文化論のトータルな枠組みの中で、仲々可視化できぬものを可視の対象に化してみせる「理論」なる視覚化=劇場化行為を捉えてみせる必要がある。(147−148頁)


漱石マニエリスムを読む試みが、おそらく翰林書房版「漱石事典」に反映されるのだろう。