漱石の宮島訪問


漱石は、夏目金之助名にて、四国松山から熊本へ転任の途中、高浜虚子と一緒に、宮島を訪れ一泊している。1896(明治29)年4月10日、松山・高浜港にて、横地校長、村上霽月、久保より江らの見送りを受け、虚子と乗船する。このときの船の中の様子は、虚子の回想「漱石氏と私」では以下のように記されている。


回想 子規・漱石 (岩波文庫)

回想 子規・漱石 (岩波文庫)


私と漱石氏とは一緒に松山を出発したのであった。私は広島から東に向い、漱石氏はそこから西に向って熊本に行くのであったが、広島まで一緒に行こうというので同時に松山を出で高浜から乗船したのであった。・・・(中略)・・・
さてその広島に渡る時に漱石氏はまだ宮島を見たことがないから、そこに立寄って見たいと思う、私にも一緒に行って見ぬか、とのことであったので私も同行して宮島に一泊することになったのであった。その時船中で二人がベッドに寐る時の光景ありさまをはっきりと記憶している。宮島までは四、五時間の航路であると思うが、二人はその間を一等の切符を買って乗ったものである。それは昼間であったか夜であったか忘れたが多分夜であったのであろう。一等客は漱石氏と私との二人きりであった。漱石氏は棚になっている上の寐台ねだいに寐いね、私は下の方の寐台に寐ねた。私はその寐台に這入る前にどちらの寐台に寐る方がえらいのかしらんと考えているうちに、漱石氏は、「僕は失敬だがこちらに寐ますよ。」と言って棚の方の寐台に上った。そうすると上の方にあるのだからその棚の方の寐台がえらいのかなと思いながら私は下の方の寐台に這い込んだ。上であろうが下であろうがこんな寐台のようなものの中で寐たのは初めてであったので、私はその雪白の布きれが私の身体を包むのを見るにつけ大おおいに愉快だと思った。そこで下から声をかけて、
「愉快ですねえ。」と言った。漱石氏も上から、
「フフフフ愉快ですねえ。」と答えた。私はまた下から、
「洋行でもしているようですねえ。」と言った。漱石氏はまた上から、
「そうですねえ。」と答えた。二人はよほど得意であったのである。その短い間のことが頭に牢記されているだけで、その他のことは一向記憶に残って居らん。宮島には私はその前にも一、二度行ったことがあるために、かえってその漱石氏と一緒に行った時のことは一向特別に記憶に残って居らん。それからいよいよ宮島か広島かで氏と袂たもとを分ったはずであるがその時のことも記憶にない。
その時漱石氏は松山の中学校を去って新しく熊本の第五高等中学校の教師となって赴任したのであった。
(133〜135頁『回想子規・漱石』)


宮島の宿について、漱石から虚子宛書簡(明治29年12月5日)に、

来熊以来は頗る枯淡の生涯を送り居り候。道後の温泉にて神仙体を草したること、宮島にて紅葉に宿したることなど、皆過去の記念として今も愉快なる印象を脳裡にとどめ居り候。(130頁『回想子規・漱石』)


漱石研究年表

漱石研究年表


と書かれており、旅館を「宮島にて紅葉(もみじ)に宿したる」と記している。荒正人編『漱石文学年表』には、

漱石の記憶では泊まった旅館は紅葉となっているが、当時そういう名前の旅館はなく、名高い旅館は、紅葉谷公園に巖惣というのがあり、そこに泊まったものと思われる。巖惣には、文人などが、よく泊まりに来ている。(183‐184頁)


漱石とその時代 第1部 (新潮選書)

漱石とその時代 第1部 (新潮選書)


また江藤淳も『漱石とその時代第一部』で、「宮島で紅葉という宿に一泊し、広島で袂をわかつ(略)」と記述している。(312頁)






巖惣は、現在、岩惣という名で経営されている。岩惣本館の古い看板には「もみぢや いわ惣旅館」の文字が上記写真のとおり残っており、漱石が「紅葉」と記載したのは、「紅葉谷」からか、あるいは「もみじや」の看板からか、断定はできないが、旅館名として「紅葉」と記したのであろうと推測される。


彼岸過迄 (新潮文庫)

彼岸過迄 (新潮文庫)


漱石は、『彼岸過迄』の「松本の話」の中で、須永市蔵が、

かねてから卒業したら母に京大阪と宮島を見物させて遣りたいと思ってゐた(329頁『漱石全集7』)


と、須永市蔵の過去の母への思いとして綴っている。漱石は宮島の光景について詳しく触れていないが、『彼岸過迄』の須永の母への思いに託して、若き日の宮島訪問を記憶から呼び起こしたのかも知れない。

漱石の一回限りの宮島訪問が、のちの小説の中に生かされていることを知ったのだった。


なお、宮島の旅館「岩惣」には、鴎外が明治43(1910)年に宿泊していることを付記しておく。