漱石はどう読まれてきたか


石原千秋漱石はどう読まれてきたか』(新潮選書、2010)が面白い。ほぼ同じ時期に出た小森陽一漱石論』(岩波書店、2010)も、石原氏の読み方の中に収まるだろう。


漱石はどう読まれてきたか (新潮選書)

漱石はどう読まれてきたか (新潮選書)

漱石論――21世紀を生き抜くために

漱石論――21世紀を生き抜くために


石原氏によれば、漱石の読者は三つのタイプに別れる。漱石の周辺にいる弟子たちといった高級な西洋的教養を持った「具体的な読者」、朝日新聞を読む「何となく顔の見える読者」、漱石の小説を読むか読まないかわからないような「顔のないのっぺりした読者」の三層の読者が、別々の楽しみ方ができるように小説を書いたという。


漱石と三人の読者 (講談社現代新書)

漱石と三人の読者 (講談社現代新書)


漱石論として古くから小宮豊隆による「則天去私」に向かって人格を形成して行く道徳的収斂説が大きな影響力を持っていた。しかしながら、江藤淳により、道徳を説く漱石を解放し、近代日本の現実を描く小説家として位置づけ直された。


決定版 夏目漱石 (新潮文庫)

決定版 夏目漱石 (新潮文庫)


石原氏は著書のなかで、小説のみならず哲学等人文社会科学関係の論文についても、適用できそうな図式を提起している。すなわち、

  1. 定説を深める論・・・「ふつうの読み方」
  2. 読み換える論・・・「定説を読み換える論」「パラダイム・チェンジ」
  3. 文化的・歴史的に位置づける論・・・「カルスタ」「ポスコロ」のような方法
  4. 意味付ける論・・・基本的に「なぜ」に答える論


以上4つの読みパターンを基に、『猫』『坊っちゃん』から『道草』『明暗』に至るまで、様々な論文や著書などを、仕分けして行く。その手際はあざやかであり、実に刺激的だ。


坊っちゃん (新潮文庫)

坊っちゃん (新潮文庫)


例えば、『坊っちゃん』について読みのパターンを見てみると解りやすい。

【ふつうの読み方】
親譲りの無鉄砲で江戸っ子の<坊っちゃん>が、親に死なれて一家離散となるが、江戸っ子らしい正義感から、四国の中学でこそこそ悪巧みをする教頭の赤シャツ一派と戦って、爽快に敗れて帰ってくる物語。


有光隆司「『坊っちゃん』の構造」(『国語と国文学』1983.8)
「ふつうの読み」では、坊っちゃんの「敗北」や「挫折」だが、有光氏は、教頭と数学科の主任堀田との権力抗争こそがこの中学での「大事件」であって、「敗北」し「挫折」したのは不当にも中学を追われた堀田と古賀である、という「(2)読み換え論」に相当する。


平岡敏夫「『坊っちゃん』試論ー小日向の養源寺」(『文学』1971.1)
坊っちゃん』は<佐幕派の文学>であるという(3)の読み方。元は旗本だという<坊っちゃん>、会津出身の山嵐松山藩の士族だったらしい「うらなり」、「もと由緒のあるもの」だった清。すべて佐幕派である。


小森陽一「表裏のある言葉ー『坊っちゃん』における<語り>の構造」(『日本文学』1983. 3-4)
小森氏によれば、『坊っちゃん』は語り手<おれ>の主観的な語りの層からみれば、一貫しているように見えるが、客観的な立場(常識者の意識)で読めば、正直や純粋という当初の「美質」や「世の中」=他者の言葉と関ることで、失っていく「おれ」の「豹変」の構造が見えてしまうという逆説的な構造を持つ、つまり「坊っちゃんの語りを意味付けているので(4)型の論文」になる。

ほかにも、山の手出身の<坊っちゃん>が、松山で「江戸っ子」になるという「(2)読み換え論」の石原氏自身の論文などが紹介されているが、ふうつの読み方以外に、三種類のパターンで読むことができることを例証している。



石原千秋による読み方の分析は、小説以外の様々な「テクスト」の読解法を示唆しているし、応用が効きそうだ。


例えば、難解な現代思想フーコードゥルーズデリダなどは、「ふつうの読み方」が分からない。読み手が独自に解釈し、彼等の言葉を「決め言葉」として論文や評論に中に散りばめる。


石原千秋は、本書の「あとがき」で、「学会向けの文体や書き方が自己満足に過ぎないことを思い知らされた」と記している。また、石原氏は「老婆心から」以下のように書いている。

ようやく下火になってきたが、カルチュラル・スタディーズ系、ポスト・コロニアル系の論文にはずいぶんあらっぽいものが多かった。・・・文化的背景や時代的背景を知りたいのなら、歴史の本を読めばすむことだ。・・・
植民地問題に触れたりすると自分が政治的に正しい立場にあるようないい気分にもなれるだろう。・・・(p364)


そして、「特に難しいのが本文の表現の分析=言語分析」であると断言している。

誰もが情報の発信を可能にしたネット時代にあって、真贋を見極めることの難しさをつくづく感じている。石原千秋は、試験国語の問題を分析する経験を経て、このような読解のパターン分類に達したのである。


受験国語が君を救う! (14歳の世渡り術)

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『こころ』大人になれなかった先生 (理想の教室)

『こころ』大人になれなかった先生 (理想の教室)


本書から、富永仲基=加藤周一の「加上説」を想起したが、それはまた改めて触れてみたい。最新刊行された『加藤周一自選集第9巻』(岩波書店、2010)に「富永仲基異聞 消えた版木」が収録されている。


三題噺 (ちくま文庫)

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第9巻 1994年~1998年 (加藤周一自選集)

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加藤周一セレクション2 (平凡社ライブラリー)

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