バベル


菊地凛子さんがアカデミー賞助演女優賞候補として話題になった映画『バベル』を観る。アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督。名前を口にするだけで舌を噛みそうな名前。一度憶えると忘れることはない。



ロッコで、一挺のライフル銃を手にしたことから、兄弟が競って銃を撃つ。弟の発砲した銃は、遠くのバスを狙っていた。子供の死を乗り超えるためにモロッコに旅行にきていたアメリカ人夫妻リチャード(ブラッド・ピット)とスーザン(ケイト・ブランシェット)。バスの窓側にいたスーザンの肩に、銃弾があたる。


ライフル銃の所有者は日本人のヤスジロー(小津安二郎へのオマージュか)=役所広司。妻の自殺が原因で、女子高校生の娘チエコ(菊池凛子)との関係が崩壊しかけている。チエコは、聾唖者であり、求めるものが容易に得られないもどかしさの中でいらだっている。


アメリカ人夫妻は、子供二人を残して旅行にきていた。メキシコ人の乳母アメリア(アドリアナ・バラッサ)は、息子の結婚式に出席するため、二人を連れて甥のサンチャゴ(ガエル・ガルシア・ベルナル)と車で国境を越えてメイキシコへ戻る。


スーザンの治療を巡って、アメリカ政府が「テロ」への疑惑をモロッコ政府へ突きつけるために、事態の進展が思わしくない。孤立した場所で待たされるブラッド・ピットのいらだちは、アメリカ社会が抱える一種傲慢さの現れか。このことは、乳母のアメリアが、メキシコから帰国する際に、国境で執拗な国境警備員に追及される一連の動きと連動している。アメリカの「テロ」や「異邦人」に対する過剰なる反応が、この国の現在地を示している。


ロッコアメリカ、日本、メキシコ。この四つの国の言葉は異なるが、映像や音楽は言葉を超えて物語を繋いで行く。解体された物語は、コラージュ風に点描され、意思の疎通の困難さに、それぞれが直面している。


グローバル化した世界の、コミュニケーション不能事態からおきるパニック的現象は、容易に誤解や誤読を引き起こすことへの警告といえる。唯一救われそうに思えるのは、菊池凛子役所広司の親子関係のみか。高層ビルのマンションのベランダで抱擁する二人を捉えたキャメラが引いて、ロングショットの風景に収まるラストショットは、人間という存在の卑小さを提示しているのかも知れない。『バベル』のタイトルが示す神への畏れを知らぬ人間の傲慢さを、遠景へと引くキャメラに仮託している。


全体としては、物語を宙吊りにしたままエンディングを迎える。バベルの塔のごとく、傲慢な人間たちの行為に偏在する神の視点から人々の関係を崩壊させる、かのように視えて、実はそれぞれが深い底流で繋がっていることを暗示しているようでもある。映画的な物語の解体により、観るものを現在から、異次元へといざなう、新しい手法に視えるきわめて刺激に富んだフィルムになっている。


バベル-オリジナル・サウンドトラック

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別の見方をすれば、コラージュされたフィルムがそれぞれ何のかかわりもない、と読むことも可能だ。グロ−バル化された世界とは、実は分断された世界にほかならない。モロッコで偶然起きた起きたケイト・ブランシェットの負傷と、対応の遅延にいらだつブラッド・ピット。政府と個人レベルでの傲慢さを共有するアメリカ。メキシコ人への理不尽な仕打ちを国境警備のアメリカ人に象徴させている。これは、メキシコ人監督からみた「バベルの塔」を世界に構築しつつあるアメリカ社会の異常さの告発ではないだろうか。


そのアメリカと対照的に描かれているのが日本とメキシコであり、モロッコアメリカ政府から「テロ」組織が存在すると一方的に攻撃されている。『バベル』は、市場原理が支配するグロ−バル化された世界の<交通>を描いているとともに、グローバル化の中心がアメリカであることへの批判とみることもできる。換言すれば、「バベルの塔」とは現在のアメリカ社会そのものにほかならない、と。


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