『バベル』追記


朝日新聞」2007年5月8日(火)の朝刊に、沢木耕太郎が『バベル』の映画評を掲載している。

なぜ菊地凛子だったのか。それは彼女の演じる女子高生が、この映画の登場人物の中でほとんど唯一「内面」を持つ人物だったからである。彼女だけが、発することのできない声を叫びに変え、チェスの駒としてではなく人間として存在できた。つまり、菊池凛子だけがその「内面」を演じることが許されたからなのだ。


なるほど、菊池凛子の女子高生のみ存在として際立っていたことは確かだ。しかし、それを「内面」という紋切り型の表現でいわれると、果たしてそうだろうか疑問が湧く。なぜなら映画とは、きわめて表層的なフィルムであって、およそ「内面」を描くという形容があてはまらないからだ。


心理的な行為を外面的に、換言すれば見える形に演ずることで、その人物の「心理」状態をあらわすことができる。それを「内面」と言ってもいいけれど、<「内面」を演じることが許された>とは、少し違うのではないか。他の人物が「類型的な設定をされている」というのも、『バベル』全体の類型化にならないか。


ブラッド・ピットにせよ、ケイト・ブランシェットにせよ、ある種典型的なアメリカ人を演じている。この二人にしては、あまりにも普通すぎる役柄で演技派の二人には嫌味で凡庸すぎる役柄だ。でもそれは、類型化という型にはまった演技とは異なる。典型的なアメリカ人をそれらしく演じながらもブラッド・ピットであり、ケイト・ブランシェットであることの存在感はやはり大きい。


菊地凛子は際だっていたことは確かだが、父親の役所広司も、また、刑事役の二階堂智も、別の意味で抑制された演技がすばらしかった。メキシコ人のアドリアナ・バラッサも、息子の結婚式という晴れの場での幸福から、国境警備員に追われて預かっている子どもを連れて荒野をさまよう姿は、リアルで悲哀感が漂っていた。


沢木氏が、「類型化」だの「内面」ということばで既成の批評枠に収めてしまうと『バベル』のグロ−バルな視野から遠のくことになる。映画の見方は様々なのだ。沢木耕太郎『世界は「使われなかった人生」であふれてる』(暮しの手帖社、2001)の映画評が良かっただけに。。。


世界は「使われなかった人生」であふれてる

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