ライフ・イズ・コメディ


ピーター・セラーズの生涯を描いた『ライフ・イズ・コメディ』(The Life and death of Peter Sellers,2004)は、原題どおりピーターの「生と死」を、再現したものであり、『ピンク・パンサー』シリーズの喜劇俳優の素顔に迫る内容だ。ピーター・セラーズを、『シャイン』のジェフリー・ラッシュが好演・怪演していて、本人以上に多くの役として登場する。



ほぼ実録に近いとされるこの映画からは、ピーター・セラーズとは、他者になることで自己を表現していたきわめて特異な俳優ということになる。ラジオ番組出身で、何種類もの声を発声することができる物まねの天才であった。最初の妻に、エミリー・ワトソン。二人の子どもがいながら、ピーターが、ソフィア・ローレンと競演し、彼女に夢中になりすぎて、離婚した。


二番目の妻は、あの『モンスター』でアカデミー賞最優秀女優賞受賞者のシャーリーズ・セロンスウェーデンからきた女優で、のちに『007黄金銃を持つ男』のボンドガールとなったブリット・エクランド役。


一般的にピーター・セラーズは喜劇役者だと思われていたし、フィルモグラフィをみればそのとおりであり、自ら喜劇以外の役を演じたいという思いが、これほど強い人物だったのは意外だった。


生まれてきたときに「内面」をもっている人間などいない。「内面」とは事後的に形成されるものだ。とすれば、ピーターの場合は、母親の影響で「内面」そのものがない「空虚」な人物として成長した。母親の期待に沿うように、スターになること、有名になることがピーターの人格そのものだった。


他者を演じるときが一番ピーターが輝くときでもある。ブレイク・エドワーズとのコンビによる『ピンク・パンサー』シリーズに出演することを極端に嫌悪していた。いわば犬猿の仲が、結果としてヒット作になるという皮肉な成り行き。


おそらく、ピーターが役者として最も評価され、自分も満足したのは、スタンリー・キューブリックの『ロリータ』の脇役と、『博士の異常な愛情』の三役を演じたことだろう。その、ピーターが自らの企画『チャンス』の製作は、チャンスの無垢で無知な人物に、「内面」のない自己を重ねたのだろう。実際、遺作となった『チャンス』は、ピーター・セラーズという俳優のイメージを転覆させる内容であり、その映画でのミニマム演技がハリウッドで初めて評価されたのだった。


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仮に、ピーター・セラーズという俳優がこのフィルムに描かれたように演技している時以外は、およそ常識を欠いた欠陥人間であったとしても、優れた作品は残される。それが芸術家や作家なのであり、俳優にもにも共通することだ。


一言にしていえば、『ライフ・イズ・コメディ』とは、日常生活では「大人」になりきれなかった「天才少年」が、そのまま俳優となり、自分の作品を客観的に観ることができなかった一人の男としての半生が描かれた映画になっている、といっていいだろう。


ピーター・セラーズを演じるジェフリー・ラッシュは、型から入ったといわれるように、「そっくりさん」で、物まねのうまさ、それも声のトーンや発声法を変幻自在にあやつる見事な演技だった。2004年のハリウッド映画は、レイ・チャールズ(Ray)やボビー・ダーリン(ビヨンド・the・シー)、コール・ポーター(五線譜のラブレター)、それにあのハワード・ヒューズアビエイター)など、伝記映画が数多く作られた年だった。その中でも、特筆に価する演技賞ものだったと感じた。「アカデミー賞ものまね大賞」を貰っていい。


シャーリーズ・セロンが、セクシー女優を演じているなど、『モンスター』の快演からいえば、出番も少ないし、普通の女優として夫を懸命に支えようとしていた、けなげな妻役をごく普通に演じて好感が持てた。また、いつもはエキセントリックな映画出演が多いエミリー・ワトソンも、実に地味な妻として控えめな役に徹していた。


この映画の中で、もっとも面白いのは、ジェフリー・ラッシュが、あるときは父親になり、また母親にも変身し、そして妻にもなり、ブレーク・エドワーズや、果てはスタンリー・キューブリックにも変身、ピーター・セラーズの考えを別人として表現していることだった。これは、すぐれて映画的な仕掛けといえるだろう。


多重人格的俳優が「内面」の空虚な一重人格さえなかったという映画『ライフ・イズ・コメディ』を観ると、一人七役を演じた未見の『マダム・グルニエのパリ解放大作戦』を観たくなった。また、『チャンス』や『博士の異常な愛情』、さらに『ピンク・パンサー』シリーズなどを見直したくなるすぐれて刺激的なフィルムなのだ。あまり評判になっていないだけに、宣伝してみたくなる。



■追記

ティーヴン・ホプキンス『ライフ・イズ・コメディ』は、主人公の「内面」の空虚さと変身後の自己対象化的饒舌など、ラカンジジェク的分析にふさわしいフィルムである。「シニフィアンの病」を対象に分析することは、興味ある精神分析的課題にもなるだろう。