会社はだれのものか


会社はだれのものか

会社はだれのものか


ライブドアとフジテレビの買収合戦は記憶に新しい。岩井克人『会社はだれのものか』は、前作『会社はこれからどうなるか』の続編であるとともに、ポスト産業主義社会における「会社」とは何であるのかを、解説している。前作では、法人としての会社は、絶えず差異を創出しつづけなければならないことが、たしか強調されていた。


会社はこれからどうなるのか

会社はこれからどうなるのか


新製品のサイクルは、かつては5年であったが、現在ではせいぜい3年であるそうな。新しいモノを創出するのはヒトのアイデアだ。ホリエモンは、「お金で買えないモノはない」と豪語した。しかし、岩井氏によれば、「逆の言い方をすれば、それは、お金はモノしか買うことができないという意味」でもあり、「ヒトは買えない」と指摘する。


岩井氏は本書で、世間ではお金の力が増しているように見えるが、おカネの力が弱くなっている、という。

多くの人の予想とは反対に、ポスト産業資本主義の時代とは、まさに意識的な違いからしか利益が生まれない時代であるということから、優れた個人の力がものをいう時代であると同時に、優れた組織の力がものをいう時代でもあるのです。(p.82)


前作では、アメリカのエンロン社の例に触れながら、アメリカ型「コーポレート・ガバナンス」の崩壊を指摘していた。本書では、「コーポレート・ソシアル・レスポンシビリティ」(CSR)なる用語を「会社の社会的責任」を意味することばとして使用し、「自己利益を超えた何かを追求し、法的な義務を超えた何かをみずからに課す個人の存在を前提とすると・・・その「何か」が社会的な責任なのです。」という。


いかにも歯切れが悪く、本の帯にある「おカネよりも人間。個人よりもチーム。会社の未来はここにある。」と単純化すれば、解りやすいのかも知れないが。


アダム・スミスが言った「神の見えざる手」によって、自由市場で個人が自己の利益のみを追求することが資本主義社会の発展につながると、楽天的に断言できるならば、ことは単純だ。岩井氏は、貨幣の起源を「はじめに贈与ありき」(『貨幣論』)と捉える不均衡論者であるが、会社は「法人」としてヒトであり、客体としてモノであるアンビヴァレンツな存在、その会社が社会的責任を負うためには、利益追求の中核に倫理性を置かなければならないという主張へとつながる。


「会社」をめぐる言説は、「落語」ではないので、オチをつける必要はないけれど、「コンプライアンス」(法令遵守)や、「株主主権論」の否定を持ち出してみても、所詮、抽象的なお話でしかないわけで、現実はもっと複雑になりすぎていて、「経済学」は現実への対応力を失っているのではないかと思ってしまう。


同じ抽象的に語るとすれば、ここは中沢新一による、バタイユの「よみがえる普遍経済学」(『対称性人類学』)で強引に、締めるしかないだろう。「死の衝動」=「至高性」の論理によって。


対称性人類学 カイエ・ソバージュ 5 (講談社選書メチエ)

対称性人類学 カイエ・ソバージュ 5 (講談社選書メチエ)

至高性や死の衝動のことを、本質的な部分に組み込んである経済学は、まだつくられたことがありません。世の中で通用している経済学のほとんどすべてのものが、ただ「生の衝動」のあらわれ方を、手を替え品を替えて理論的に表現しているにすぎないように思えます。そういう経済学を土台から「転倒」するものとして、バタイユの「普遍経済学」は構想されました。(p.238)


バタイユからみれば、岩井克人も「生の衝動」にもとづいた「貨幣論」であり「会社論」になってしまう。「神の見えざる手」以降の「経済学」のなかには、「死の衝動」の概念がないらしい。「普遍経済学」の新たなる登場が期待される。


島尾敏雄の『「死の棘」日記』について書くつもりでいたのだが、その前に岩井克人を読み始めてしまい、「経済学」的無知を曝す結果となってしまった。島尾敏雄については、『死の棘』と、『死の棘』から排除された『われ深きふちより』などの「病妻もの」、それに小栗康平の映画版『死の棘』を含めて、後日触れたい。


「死の棘」日記

「死の棘」日記