文学地図


加藤典洋「関係の原的な負荷―二〇〇八、「親殺し」の文学」(『文学地図』朝日新聞社、2008)は、近代文学における単一の主人公が不在である現代文学について、「関係の原的な負荷」をキイワードに、現代社会の病理に迫る鋭い分析をしている。


文学地図 大江と村上と二十年 (朝日選書)

文学地図 大江と村上と二十年 (朝日選書)


解読する作品は、沢木耕太郎『血の味』(新潮社, 2000)『無名』(幻冬舎, 2003)、村上春樹海辺のカフカ』(新潮社、2002)、それに岩明均のマンガ『寄生獣』を対象に、芹沢俊介『親殺し』(NTT出版, 2008)を援用しながら、「親子の関係」とりわけ父・母と子の関係の根底にあるものを探り、きわめて説得性に富んだ結論を導いている。


無名 (幻冬舎文庫)

無名 (幻冬舎文庫)

寄生獣(完全版)(1) (KCデラックス)

寄生獣(完全版)(1) (KCデラックス)

海辺のカフカ〈上〉

海辺のカフカ〈上〉


日本の近代文学は、父への反発、家父長制としての「家」を批判する主体的自我を持つ「単一の主人公」を描いてきた。ところが、世紀末から21世紀初頭の現代文学では、「単一の主人公」の不在を加藤氏は指摘する。とりわけ、この4年間の社会のできごとは、「新聞やテレビをにぎわせた事件に、インターネットの世界のひろがりと家の内奥の闇ともいうべき二極の対立を感じさせる」(p.293)ものであるという。



親殺し

親殺し


芹沢氏は『親殺し』において、この4年間に起きた事件10件をとりあげ、「親殺し」の前に親たちによる「子殺し」があるという。*1加藤氏は、ここから現代文学が担っている課題へとリンクさせる。既読の『海辺のカフカ』に沿ってみてみよう。


2002年の刊行時に、発売後ただちに読んだが、並行する二つの世界は『世界の終り・・・』と同じパターンで、いわば謎のばらまきに感じられた。しかし、「父殺し」がカフカ少年とナカタさんによって二重化されることで、少年の罪は上書きされる。また、カフカが四歳のとき家出した母が甲村図書館にいる佐伯さんであることはカフカ少年に対して肯定されないが、読者には母親であることが分かるように書かれている。

これは間主観的な関係のうちに成りたつ現象学的な確信成立の構造なのである。この二人(カフカと佐伯さん:引用者)の関係は、こうして、いわば現象学的な確信成立が互いに向いあうような、合わせ鏡構造として、成立することになる。(p.399)


ここから、加藤典洋は次のような結論を導いてくる。

なぜ「関係の原的な負荷」が問題なのか。/・・・(中略)・・・/その理由を、一言でいえる。/いま、いくつかの小説がぶつかっているのは、ここでふれた、言葉にできないものを、どう言葉にするか、という問題にほかならないからである。・・・(中略)・・・/一つは、なぜ「主人公の単一性」の希薄化、「単一の主人公性」の希薄化ということが、近年の「親殺し」とでもいうべき事件と関わるのか、ということである。/もう一つは、『寄生獣』『海辺のカフカ』がともに教えるが、いまでは、一人の人間のドラマを取りだそうとすれば、いったん「一」という単位が壊れなければならないようだ、ということである。(p.406)


もちろん、これは「文学」の世界の話であり、加藤氏はこの延長上に、埴谷雄高の「自同律の不快」や、カミュ『異邦人』、ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』の近現代の原型的な「親殺し」を、フロイトの知見によって解釈したいとあとがきに記している。


埴谷雄高 (KAWADE道の手帖)

埴谷雄高 (KAWADE道の手帖)

カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)

カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)

*1:芹沢俊介氏は、事例であげた10件のような場合、「隣る人」の存在が必要であり、実際に親でなくとも、「親子関係を作り直す」ことが、現実的な有効策であるとする。教育問題や家庭問題に関係するが、本稿は、加藤氏の文学的設問にかかわる問題なので、これ以上踏み込まないことにしたい。