日本語の深層


熊倉千之著『日本語の深層』(筑摩書房, 2011)は、日本語の特質について「源氏物語」「古今和歌集」に遡り、西欧語の文法で構築された、古文法の過ちを、個別に動詞活用の実態や助動詞の分析などを明快に例示して行く。このあたりの前半について詳細にコメントすることはできない。しかし、後半の「能」や「浄瑠璃」についての新たな説明は、<膠着語としての日本語>について、大いに納得できる。


つまり、こういうことである。「能」ではワキの視点から、シテへ感情移入している。生きているワキが、自分の思考の中で、死者であるシテを呼び出しているという構造になっている。詞(セリフ)や謡(歌)は、ワキの思考・感情の移入であり、シテの思いをワキが語るのが基本構造であり、これが日本語の特質であると、熊倉氏は言う。


日本語の深層: 〈話者のイマ・ココ〉を生きることば (筑摩選書)

日本語の深層: 〈話者のイマ・ココ〉を生きることば (筑摩選書)


もうひとつ分かりやすい例は、「浄瑠璃」であり、熊倉氏は次のように解説する。

浄瑠璃という舞台は、語り手の他者に対する認識がすべてで、実際に舞台に登場する人形たちは、語り手が想像の世界で造りあげる映像で、あくまで語りを補助する道具です。能楽は作者の分身をワキとして舞台に乗せ、内在化する意識を映像化することであったように、人形浄瑠璃の舞台も作者の人間に対する認識を、「太夫」という舞台での語り手、三味線方や人形遣いの助けを借りてイメージ化しようとするのです。その趣旨は、語り手の人間理解が、その「主観」を社会的な「主観」、つまり日本語の「客観」(共同社会の主観)となるように観客の「こころ」を誘うことです。(p.189)

これらの日本語の特質から、近代小説の三人称化は基本的に困難である。漱石は、『草枕』で「余」を語り手として設定し、<非人情>の世界を描こうとした。熊倉千之「漱石の非人情(客観)小説」*1において、詳細に分析されている。


中島敦 (ちくま日本文学 12)

中島敦 (ちくま日本文学 12)


中島敦『古潭集』四部作「狐憑」「木乃伊」「山月記」「文字禍」、とりわけ「文字禍」は、「書かれた文字が勝手に一人歩きすると、とんでもない禍をもたらす」と云う意味で、西欧の近代に追いつけ追い越せという、日本の盲目的な<西欧崇拝>を批判すると、中島は遺言を書くように小説を書いたのだ、と熊倉千之は言うのだ。


漱石のたくらみ―秘められた『明暗』の謎をとく

漱石のたくらみ―秘められた『明暗』の謎をとく


熊倉千之『漱石のたくらみ』(筑摩書房,2006)で『明暗』を、『漱石の変身』(筑摩書房,2009)では、『門』の冒険から『道草』へ至る道筋を熊倉氏独自の手法で示した。著者が示唆する数字(例えば28)などは、個性的な読みで作品分析を行うので、100%首肯できないとしても、新たな解釈であった。熊倉氏が言う<語り手の人間理解が、その「主観」を社会的な「主観」、つまり日本語の「客観」(共同社会の主観)となるように観客の「こころ」を誘う>様な方法で、卓抜な作品解読をしている。


しかし、このような熊倉千之氏の日本語の膠着語的特質について、国語・国文学界がどうも、完全に無視している、ようであり残念である。


漱石の変身―『門』から『道草』への羽ばたき

漱石の変身―『門』から『道草』への羽ばたき


日本語の特質に注目した熊倉氏の漱石読解の次作は、『彼岸過迄』『行人』『こころ』を読み解くはずであり待ち遠しい。漱石読解三部作として期待したい。

*1:東京家政学院大学紀要」136号,1996 p.53-62