父親たちの星条旗


クリント・イーストウッドが、硫黄島の戦いを二部作で撮ることは早くからニュースとなっていた。最初に公開されたのは『父親たちの星条旗』(Flags of our Fathers, 2006)であり、アメリカ側からみた硫黄島の日米戦争である。


父親たちの星条旗

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イーストウッドは、常にヒーローを描いてきたが、どちらかと言えば屈折したダーティーなヒーローであり、フィルモグラフィと彼の保守性からこの映画への懸念の思いは、『父親たちの星条旗』を観ることで完全に払拭された。戦争映画として歴史に残る大傑作であった。


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イーストウッドが撮った戦争映画は『ハートブレイクリッジ勝利の戦場』(1986)のみであり、しかも、実戦ではなく、海兵隊で若者たちを訓練する古参兵役を演じて、教育者としての在り方を示した映画であった。そこでは、レーガン政権下の戦略批判でもあったことを想起すれば、『父親たちの星条旗』は、ブッシュ政権への保守的立場からの批判になっていて、イーストウッド自身の姿勢にブレはない。



硫黄島の戦闘シーンの凄ましさはモノクロに近い脱色されたフィルムで、そのリアルさは、例えばスピルバーグの『プライベート・ライアン』(1986)の迫力を喚起させるし、敵が見えない恐怖感という点でテレンス・マリックの『シン・レッド・ライン』(1998)を想起させる。



摺鉢山に立てられた星条旗を支える兵士たちを撮った一枚の写真が、「ニューヨーク・タイムズ」に掲載されると、写真に映された6人の兵士はたちまち英雄として注目される。当時、政府は戦争遂行のためには、莫大な国債を必要とした。その国債のキャンペーンに利用されたのが星条旗を立てた生き残り兵士3人であった。彼らは、戦場の悲惨さと戦友の死を負目に、自分たちは英雄ではない、戦場で死んだ人こそ英雄なのだと主張する。作品に登場する俳優はほとんど無名にちかく、それが映画のリアリティを支える大きな要素になっている。戦場で「コーマン」と呼ばれる衛生下士官ドク(ライアン・フィリツプ)、インディアン・ピマ族の海兵隊員アイラ(アダム・ビーチ)、積極的に戦時国債ツアーに参加し「英雄」を利用しようとしたレイニー(ジェシー・ブラッドフォード)、この3人を中心に物語が展開して行く。戦場へ赴くのもはには死か、生き残った者には「戦争神経症」という恐るべき心因の敵が待っている。


死を控え老いたドクの脳裏に浮かぶ戦場シーンから、モノクロ−ムの硫黄島へ映像がカットバックされるように現在と過去、戦時国債ツアーから戦場に移る手法は、イーストウッドというより脚本のポール・ハギスによるものであることは、クリント・イーストウッドのフィルムを観てきた者なら誰もが理解する。


アメリカ海軍にとって、5日間で終わるはずの硫黄島制圧は、予想外に長引いた。その原因は日本軍の作戦にあったことが、当然二部作日本側からみた『硫黄島からの手紙』で明らかにされるだろう。エンディングロールのあと、予告編として付された後編はイーストウッドが日本をどう視ているか大きな期待を抱かせる。


戦争とは決して「美しい国」を守るために行われるのではない。戦場の悲惨さや無意味さは、映像を通して観る者の心に残る。誰のための戦争なのか、と。


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クリント・イーストウッドのフィルムモグラフィを見れば、『父親たちの星条旗』が突出していることは明白であり、これまでに撮った数々の傑作を凌駕する優れたフィルムになっている。『恐怖のメロディ』(1971)が監督第一作であったことを思えば、その後の『アウトロー』(1976)や『ガントレット』(1977)にはじまり、『ペイル・ライダー』(1985)から『許されざる者』(1992)に至る傑作群では、屈折したヒーローをイーストウッドが演じていたこと。また、『バード』(1988)『ミスティック・リバー』(2003)や『ミリオンダラー・ベイビー』(2004)に見られる、深く傷ついた男や女を取り上げてきた経歴が、『父親たちの星条旗』に繋がっているといえよう。

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父親たちの星条旗』は、まぎれもなく戦争とプロパガンダに関する映画だ。戦時国債ツアーにおける米国民の熱狂ぶりは、ブッシュがイラク戦争対テロ戦争と位置づけ、国民の熱狂をかきたてたことと重なる。プロパガンダの怖さと正義の戦争などないことを、このフィルムから読みとることができる。


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【補記】2006年11月6日追記


中条省平クリント・イーストウッド/アメリカ映画史を再生する男』(朝日新聞社,2001)のなかで、『恐怖のメロディ』について、ドゥルーズ『シネマ』を援用しながら次のように記述している。

ジル・ドゥルーズは『シネマ』のなかで、ハリウッドの古典映画の規範となった<行動=イメージ>が、第二次大戦後のネオリアリズム以降、<時間イメージ>にとって代わられることを論証し、その過程で、主人公たちが動機づけを失った神経症的状態におちいってゆくことを指摘している。(p.183)

この印象的な記述の基となるジル・ドゥルーズ『シネマ』の翻訳本が、ついに刊行される。