ドゥルーズ・映画・フーコー


丹生谷貴志ドゥルーズ・映画・フーコー』(青土社、2007)は、1996年版の増補版で、ドゥルーズ『シネマ1*運動イメージ』の刊行に合わせて、増補版を出版したものと思われる。ところが、法政大学出版局のホームページを見ると、6月新刊のラインナップに含まれていない。20年以上も翻訳が出るのを待ち、昨年11月に待望の『シネマ2*時間イメージ』が刊行され、続刊は2007年6月という予告による期待感が高まるなかでの、丹生谷貴志の旧著の復刊に「イーストウッド論」が書き下ろしで増補されたことに、何らかの意味がありそうだ。


ドゥルーズ・映画・フーコー

ドゥルーズ・映画・フーコー


フーコードゥルーズが「世界は映画である」というテーゼで結びつくというのが丹生谷貴志の持論であり、増補として書き下ろしたのが「報いなき受苦の祝祭−イーストウッド映画の倫理」であり、なぜイーストウッドなのかが気になり、旧版の書き下ろし「崩壊に曝された顔」と増補の書き下ろし「報いなき受苦の祝祭」を併せて読む。

丹生谷貴志は、イーストウッドの映画について次のように規定する。

自身の崩壊過程に寄り添いながらそれと同じ速度で崩壊して行く映画をつくること、これがクリント・イーストウッドという特異な作家の身上であるということ、そのことが、イーストウッドの老いという現実とともに、取り返しの付かない崩壊過程そのものに寄り添いながら死んでゆく映画という不思議なものを作りだす。(p.267)


イーストウッドの「崩壊」「老い」「死」にこだわるスタイルは、この監督の倫理であるという。

イーストウッドが、すでに死んであることというシチュエーションを奇妙に偏愛してきたことは誰もが知っている。ハリウッド凱旋第一作『奴らを高く吊るせ!』(1968)が冒頭から彼がリンチの絞首刑になって瀕死のストレンジ・フルーツとしてぶら下がる場面から始まることは周知のとおりだし、すでに述べたように監督第二作『荒野のストレンジャー』、その遠いリメイク『ペイルライダー』はともに、前者では文字通り復讐の亡霊として、後者では「神」の命に従って(?)黄泉の国から一時的に蘇えるという点が異なっているにしても、かつて殺された男が亡霊となって現れるという設定を持っていた。(p.271)


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丹生谷貴志によれば、イーストウッドは「戦後映画」の終わりとして、映画を撮り続けいるというのだ。増補版では、『許されざる者』(1992)から『硫黄島からの手紙』(2006)に至る映画をたどりながら「受苦という倫理」を、イーストウッド映画にみようとする。

受苦は報復を正当化しないし、受苦は受苦のまま継続して、ほとんど如何なる報いも返礼として返さないという倫理の選択である。(p.307)
重要なのはイーストウッドが・・・報いのない受苦ということを、言わば自身の映画の「晩年様式」として倫理的に選んだという、そのことだ。(p.309)


さらに『硫黄島からの手紙』への次の言及が、イーストウッドの一貫した姿勢を裏付ける。

硫黄島からの手紙』という一種補遺的な作品でも、あらかじめ救いのない硫黄島攻防の、日本軍の受苦にもそれなりに正当な理由があったという道徳的な同情などではなく、ただ生においてすべてのものが受苦を受苦として生きるしかないことへの認証以上のものを、アメリカ人監督イーストウッドに求めるのは感傷に過ぎない。(p.314)


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たしかに、丹生谷貴志氏に指摘されるまでもなく、イーストウッドはその監督第一作『恐怖のメロディ』(1971)から、理由なく理不尽に女性ストーカーにつきまとわれる男を演じていたし、監督第二作『荒野のストレンジャー』(1972)と『ペイルライダー』(1985)は、丹生谷氏が上に記しているとおりの受苦物語であり、『マディソン群の橋』は、死者となった母とその恋人の数日間の出来事であり、『父親たちの星条旗』(2006)は硫黄島に参戦した兵士の受苦物語だった。


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丹生谷貴志は言う。


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映画はその誕生の始めから資本主義的全体主義の俗悪な狂気の表象そのものであるというアドルノ/ホルクハイマーの癇癪言い方を引き起こしもするのだが(?)、ともあれ、主演級俳優であり監督でもあるというイーストウッドに生ずるのは自身の生を巡って、さらには映され得るもの全てを巡って、・・・(中略)・・・『許されざる者』を境に、と言うか、おそらくその映画の始めから、イーストウッド的映画に受苦への特異な倫理的選択がある。イーストウッドにおいて映画とは、世界の本質をなす受苦をフィクションへと「搾取」するそれ自体報いのない受苦そのものの表出となるのだ。(p.316)


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「報いなき受苦の祝祭」と副題されたイーストウッド論は、彼が単なるヒーロ俳優ではなく、意図的に倫理的な救いのない受苦を描きつづける作家にほかならないことに言及している。

ドゥルーズの死から始まり、ベルクソンへと続く冒頭の「持続と記憶」のラスト近くの文章から引用する。ここには、丹生谷貴志の「イーストウッド論」の前提がある。

われわれのイマージュ世界は常に誰かの或いは何かの死後の世界であり、常に誰かの或いは何かの生前の世界である。そしてそれは無限個のモナドにおいて交錯し、無限のイマージュの持続において持続している。私は誰かの死後の世界を生き誰かの生前の世界を生きる。(p.28)


「私は誰かの死後の世界を生き誰かの生前の世界を生きる。」・・・


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