シネマ2*時間イメージ(続々)


朝日新聞』2007年1月7日(日)の書評欄に、中条省平ドゥルーズ『シネマ2*時間イメージ』について、「映画手法の転換 作り手の苦闘の物語」と題して掲載された。


シネマ2*時間イメージ (叢書・ウニベルシタス)

シネマ2*時間イメージ (叢書・ウニベルシタス)


<運動イメージ>から<時間イメージ>への転換の役割を、イタリアンネオレアリズモ(特にロッセリーニ)と、1960年代フランスのヌーヴェル・ヴァーグが担ったと明快に記している。
<運動イメージ>と<時間イメージ>の説明は以下の中条氏の文章が解りやすい。

映画の最小単位であるショットは物や人の動きを映しだす。これが<運動イメージ>である。運動は、時間という変化する全体のなかで存在するが、映画で時間を表現するためには、ショットを組み合わせて編集し、間接的に再現するほかない。・・・(中略)・・・/ところが、ネオレアリズモとヌーヴェル・ヴァーグは、この感覚運動的な連続性を破壊し、運動イメージのスムーズな連鎖による時間の間接的再現を退けた。代わって現れたのが、一つのショットのなかで直接的に時間を露にする<時間イメージ>である。/主人公が秩序ある空間のなかで目的に向かって行動する<運動イメージ>に対して、人間が無秩序のなかで彷徨する<時間イメージ>が映画の最前線を占めるようになる。・・・(中略)・・・/映画を論じることが、即、人間精神と世界の深みを潜りぬけることに通じる稀有の書物であり、約20年前に書かれたが、世界が混迷を深めるいま、現代的な意義はかえって増している。


ドゥルーズ『シネマ2*時間イメージ』については、拙ブログで2回言及したので、細部については避けるが、中条省平氏がいう世界との関係における問題認識については、賛同する。ドゥルーズの『シネマ』は、賞味期限が切れたわけではなく、今後も映画=哲学の古典になる得るだろう。ショットの分析が基本にあるからだ。映画は、ショットの繋がりであり、積み重ねなのだから。


「ショット」の繋がりが「シーン」となり、「シーン」の集合が「シークエンス」となり、「シークエンス」が組み立てられ編集され、「フィルム」が成立している。一本の映画が、どのような「ショット」「シーン」「シークエンス」で出来ているかを、分析し考察したのがドゥルーズ『シネマ』である。


『シネマ2*時間イメージ』の「書評」は、野崎歓氏の『読売新聞』(2006年12月11日付)があるが、内容の要点を押さえているのは、中条氏の書評である。野崎氏の結論部を引用しておく。映画のみならず、「現代の小説や芸術一般」にも妥当する思考法であるから。

周到な分析を積み重ねた末に、著者はいささか唐突に訴える。世界が「悪質な映画のように」なってしまったいま、映画の使命は「世界への信頼を取り戻すこと」にあるのだと。まさにスクリーンから吹き込まれた熱情が伝わってくる。映画だけではない。現代の小説や芸術一般のあり方について考えるときにも、大きな刺激を与えてくれる一冊に違いない。(野崎氏:書評)


なお、小泉義之の新訳本・ジル・ドゥルーズ『意味の論理学』(河出文庫)が出版された。ドゥルーズ哲学としては、『差異と反復』『意味の論理学』『アンチ・オイディプス』『シネマ』と進むべきであろうが、私としては、映画から入るのが読みやすい。だから『シネマ1*運動イメージ』の刊行が待たれるのだ。個人的には、ドゥルーズ著作で古典として残るのは『シネマ』であると思いたい。


意味の論理学〈上〉 (河出文庫)

意味の論理学〈上〉 (河出文庫)

意味の論理学 下

意味の論理学 下


課題としての『差異と反復』(河出書房新社、1992)、これで何度目だろうか。


差異と反復

差異と反復