そうかもしれない


耕治人の命終三部作が収録された『そうかもしれない』(武蔵野書房,2006)を読了。長年連れ添った妻は、認知症となり先にホームへ入居し、後に、耕治人はガンのため入院する。入院中に最後の作品「そうかもしれない」を執筆する。入院中であり、しかも命にかかわる手術を受けながら歩行もままならない状態で、認知症の妻と最後の面会をする。


そうかもしれない―耕治人命終三部作

そうかもしれない―耕治人命終三部作

何度目かに「ご主人ですよ」と言われたとき、「そうかもしれない」と低いが、はっきりした声でいった。(p.142)


妻の「そうかもしれない」という言葉について、その夜、耕治人は気づく。

その夜眼が覚めたとき、「そうかもしれない」という言葉と、それを言ったときの表情が浮かんだ。その言葉は、家内が元気なときに時折聞いたことに気付いた。(p.144)


三部作の前に、「一條の光」が置かれている。独身を通すつもりだった妻との出会いから結婚にいたる過程、新婚の頃の生活が綴られている。部屋のなかのゴミについて、印象的な文章がある。

四畳半と三畳には、そのゴミのほかにはチリひとつない。小指の先ほどの鼠色のそのゴミは、生まれたような気がした。見つめていると、生きているように感じられた。不思議なことが起きた。そのゴミを起点として、一條の光が闇のなかを走った。私は闇のなかに、いつのまにかいた。一條の光は私の過去であり、現在だ。それは父母であり、兄妹であり、私の出身校であり、勤め先だった。生涯を一條の光が貫いたのだ。それは太くもあれば細くもあった。私はワナワナ震えた。身動きができなかった。コレダ!と思ったのだ。それまでも自分のことを書いたが、自信はなかった。そのとき必然性が生まれたのだった。(p.22−23)


「一條の光」とは、小説を書き続ける決意だ。


「天井から降る哀しい音」から「どんなご縁で」へと、妻の認知症が次第に進行して行く。そしてついに、妻を老人ホームへ入居させる。その後、作家自身が死病に犯されていることが分かり、入院となる。「夫婦愛」という簡単なことばでは言い尽くせない。不思議で透明な世界。良質な私小説。ことばが、文体が簡潔にして際立っている。

本来は、哀しいはずの世界が、輝いている世界。それが、耕治人私小説だ。