シネマ2*時間イメージ


ジル・ドゥルーズ『シネマ』の第2巻、『シネマ2*時間イメージ』が宇野邦一ほか訳により、法政大学出版局から刊行された。『シネマ1*運動イメージ』は来年度刊行になる。なぜ、第二巻が先行して出版されたのか。読者としては奇異な印象を禁じえないけれど、第二巻が主に戦後の映画を対象にしているためであろう、と勝手に推測する。


シネマ2*時間イメージ (叢書・ウニベルシタス)

シネマ2*時間イメージ (叢書・ウニベルシタス)


例えば、映画よりも「映画批評」が面白いとか、小説よりも「文芸時評」が面白いなどということは、おそらく例外であろう。実際、映画批評を読むより「映画」そのものを観る方がはるかに映画を実感できるし、小説を読むことが体験としては刺激的であることは申すもまでもあるまい。しかしながら、蓮實重彦の「映画評論」は、映画を観るより読むことの楽しさを味わうことができる。あるいは、三浦雅士の「文芸批評」はある主題に沿った一貫性から小説を読みとく面白さがあることも確かだ。


『シネマ』の序文において、ドゥルーズは次のように記述している。

我々の視点においては、偉大なる映画監督は、単に画家、建築家、音楽家と比較されるだけでなく、思想家と比較されうる。彼らは概念の代わりに、運動−イマージュと時間−イマージュでもって思考する。(http://www.iamas.ac.jp/~tetuma03/cinema/index.html

まず、第1章「運動イメージを超えて」から第5章「現在の諸先端と過去の諸相」までを読む。もちろん映画史であるはずもないけれど、記号論や運動イメージから時間イメージ映画への移行を論じながら、映画論ではなく、哲学的考察が延々と続く。


イタリアのネオリアリズムを担ったロッセリーニやデ・シーカの映画への言及に始まり、小津安二郎からハリウッドのミュージカル映画にまで触れて行く。哲学者が映画を論じる姿勢としてみても、ドゥルーズは古典的映画から娯楽映画まで、幅広く映画を観ている。


ドゥルーズによれば、オースン・ウェルズが用いたパンフォーカス手法が、時間イメージの重要な転換点であることにこだわる。

われわれがいいたいのは、パンフォーカスが直接的な時間イメージの一つのタイプを創造するということであり、そのタイプは記憶、過去の潜在的諸領域、各領域の諸局面によって定義することができるということだ。それは現実性の機能というより、想起の機関、時間化の機能である。
・・・(中略)・・・パンフォーカスが十全な必然性を見いだすのは、ほとんどいつも記憶との関係においてである。そこでやはり、映画はベルクソン的である。慣習的にフラッシュバックによって表象されるような、回想イメージからなる心理的記憶が問題なのではない。時系列的な時間にしたがって移行する諸現在の契機が問題なのではない。原働的な現在において生み出され、回想イメージの形成に先行する喚起の努力が問題であり、あるいはまた、後になってこの回想イメージを出現させる過去の層の探求が問題なのである。いわば心理的記憶の此方と彼方であるが、これらは記憶の形而上学の二つの極なのだ。この記憶の両極を、ベルクソンは過去の諸層の拡張および原働的な現在の収縮として示している。
・・・(中略)・・・確認すべき事実は、パンフォーカスが、あるときは現実態における喚起を、あるときは回想を発見するために探求される過去の潜在的な諸層をわれわれに示すということである。(p.131−132)


市民ケーン [DVD]

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ウェルズ『市民ケーン』におけるパンフォーカスは、通常映画技術の問題として論じられるが、ドゥルーズ形而上学として捉える。時間イメージとして格好の話題を提供するのはもちろんアラン・レネ『去年マリエンバードで』であり、映画を時間イメージとして論じる対象にはうってつけのフィルム。


物質と記憶

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レネのトラヴェリングも、技術的にではなく、イメージとして捉える、となれば、ベルクソン物質と記憶』を前提に読まないと、ドゥルーズ『シネマ』の意図は読みとれない。うーむ!とりあえず、本日はここまで。


ドゥルーズ KAWADE道の手帖

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