小説家が読むドストエフスキー


小説家が読むドストエフスキー (集英社新書)

小説家が読むドストエフスキー (集英社新書)


小説家で医者の加賀乙彦『小説家が読むドストエフスキー』は、新書版にしては、作家ドストエフスキーの生活と思想を概観する書物になっている。
死の家の記録』『罪と罰』『白痴』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』の代表長編作を取り上げながら、加賀氏自身のカソリック観、「きわめてロシア的なキリスト教の形を示していることを改めて思います。」ということばのなかに収斂している。


終章の「ドストエフスキーキリスト教」から引用する。

キリスト教の四つの福音書に書かれた言葉、「大審問官」で書かれていたように「何一つ附けたす権利さえ持っていない」という聖書の言葉のなかで、イエスが間違ったことをひと言でも言っているか、発見できるかというと、私は何回読んでも見つけられません。イエスはひと言も間違ったことを言っていない。(p.206−207)


第一章から第四章までは、ここまで極端にキリスト教的な視点ではないように読んでいた。ドストエフスキーの長編には、「殺人」という罪や、悪人に見える人物が数多く登場する。善人の象徴は、『白痴』ムイシュキンだろうが、『罪と罰』のラスコーリニコフ、『悪霊』のスタヴローギンなど、悪人としての定義には収まらない。ロシア的なキリスト教的解釈をしてしまうと、ドストエフスキーのポリフォニックな魅力が半減する。


個々の作品に即した読み方は、医者であり文学者、小説家である加賀氏の読解により、ドストエフスキーの作家としての偉大さ、あるいは異常さは押さえられているし、未読の『死の家の記録』は、読書欲を掻き立てる。しかし、果たして、「ロシア的なキリスト教」の枠内に収まるのか。


『悪霊』神になりたかった男 (理想の教室)

『悪霊』神になりたかった男 (理想の教室)


亀山郁夫『『悪霊』神になりたかった男』を、拙ブログで取り上げた*1けれど、亀山氏の解読の深さを思うとき、加賀氏の平板さは如何ともしがたい。ここは、やはり、小林秀雄の『ドストエフスキイの生活』を読むこと、あるいは、埴谷雄高ドストエフスキー論を再検証する必要が出てきた。


ドストエフスキイ 1964~68

ドストエフスキイ 1964~68


カラマーゾフの兄弟』の続編は、『偉大なる罪人の生涯』であり、主人公は、アリョーシャになる予定であった。埴谷雄高は『ドストエフスキイ その生涯と作品』で次のように結論づけている。

宗教的人物であるアリョーシャは革命家になり大きな政治的犯罪を行い、そして、死刑を執行されるというのです。つまり信仰をもち、信仰から離れ、偉大なる罪人になるのでしょう。そして、ドストエフスキイのモチ−フである苦悩による浄化をアリョーシャもまた体験することになるのかもしれません。
(p.311『埴谷雄高全集7』)

ドストエフスキイが作家たることを自覚し、作品を書く労苦をいとわず全身で没頭する理由は、たった一つの目的、現実以上の現実を彼が透視し得ることを何ものかに証明するためにほかなりません。
(p.318,同上)


埴谷雄高が指摘するところ、換言すれば「魂のリアリズム」にこそ、ドストエフスキーの作家的資質があるといえよう。


小林秀雄全集〈第6巻〉ドストエフスキイの生活

小林秀雄全集〈第6巻〉ドストエフスキイの生活


ドストエフスキーは、21世紀以後も評価され続ける作家なので、「ロシア的なキリスト教の形」に小さく収まってしまうと困るのだ。で、またしても、小林秀雄の『ドストエフスキイの生活』が課題として残ることになった。

*1:2005年6月19日の拙ブログ参照