谷間の女たち


鈴木地蔵『市井作家列伝』で紹介されていた、森山啓『谷間の女たち』(新潮社,1989)*1を読む。人に勧められて読んだのだが、かつてプロレタリア作家であった森山啓が、幼年時代から20代で結婚するまでの一種の自伝であるとともに、優れた私小説であり、また、自己分析の報告であり、大正から昭和初期の底辺に生きる女性の実態が、生なましく描かれている。


忘れられる過去

忘れられる過去


福井生まれの現代詩作家・荒川洋治は『忘れられる過去』(みすず書房,2003.7)の「道」のなかで、次のように作品を通して人のつながりについて述べている。

森山啓は、新潟・村上の生まれ。父親が教師だった関係で新潟、富山、福井、石川の順で暮らした。福井の詩とはその糸で結ばれていたのだった。人のつながりを知ると、ほくの気持ちもひろがり、どの土地にも親しみを感じる。楽しいことだ。/二十代に、いくつかの小説と出会う。まずは石川県能登・富来(とき)生まれ、加能作次郎の作品。長編「世の中へ」は漁村の少年が奉公に出る話だ。その子も、おとなも心に残った。そして能登から京都へ、という道筋が目のなかに残った。/島村利正の小説「仙酔島」は信州・伊那の村のおばあさんウメさんが、村で亡くなった行商の人の家をたずねて福山(広島)まで旅をする話だ。山から海へと向かう、美しい文章で、信州と広島がつながる。/島根・益田生まれの田畑修一郎の小説、特に「三宅島もの」に感動したぼくは『田畑修一郎全集』(全三巻)をだいじにした。出版したのは、広島の梶野博文。広島は島根の隣だ。広島と島根を結ぶ道が浮かぶ。隣どおしはやはり結ばれている、と感じる。/地方から東京へ、地方から大坂へなど、踏む固めた道が話題になることが多いが、それだけではない。人は他にも道をもつ。能登から京都、伊那から福山、広島と益田というように。/そんな道がいくつも、いくつもあるのだ。踏み固めた道より、こうした個々の道を、文学は記録する。知らせてくる。「いい道だ」と、叫びたいときもある。(p.16−17)


私の好きな文章だ。この文章が、その後私が、加能作次郎島村利正田畑修一郎へと読みすすむ契機となったものだ。で、荒川氏の福井県の隣、石川県出身の作家・森山啓の『谷間の女たち』をブログを通して教えらた人から勧められ、読むことになったわけだ。文学の「縁」というのは不思議なものだ。上記の作家たちは、文学史的には、ほとんど忘れられた作家だ。マイナー・ポエット。しかし、彼らの作品には、暖かい共通した人生への姿勢がある。