「丁丑公論」と「痩我慢の説」


日本の思想は、外国からの輸入思想が中心であり、それは明治以降の近代社会のみならず、古代から連綿と続く伝統で、外来思想の定着と日本固有の思想という視座では、小林秀雄丸山眞男は、共通の認識がある。小林秀雄は「直感」で判断し、丸山眞男は「論理的」に分析し「執拗低音」として提示した。小林秀雄は「本居宣長」にたどり着き、丸山眞男は終始、「福澤諭吉」(福澤惚れ)にこだわった。「福澤評価」で二人は、共通しているのだ。


丸山眞男小林秀雄の双方が好きな読者はいるのだろうか。およそ交錯しない分野であり、一方は学者、一人は文藝批評家。しかし、読む者にとって、名前につきまとうイメージは関係ない。著者対読者、一対一の関係以上でも以下でもない。


小林秀雄丸山眞男に言及したのは、後にも先にも只一度であった。「哲學」というエッセイのなかで、『日本政治思想史研究』の徂徠に触れ、「私としては、徂徠といふ人の懐にもつと入り込む道もある」と述べている。一方の丸山眞男は『日本の思想』のなかで、小林秀雄を何度も引用している。


丸山眞男集〈第9巻〉1961−1968

丸山眞男集〈第9巻〉1961−1968


丸山眞男は『日本の思想』「あとがき」で、つぎのように小林秀雄を評価している。

小林氏は思想の抽象性ということの意味を文学者の立場で理解した数少ない一人であり、私としては実感信仰としての一般的類型としてではなく、ある極限類型として小林氏を引用した(p.118,『丸山眞男集9』)


「思想の抽象性」を理解する立場において、二人は共通するのである。


小林秀雄全集〈第12巻〉考へるヒント

小林秀雄全集〈第12巻〉考へるヒント


ところで、小林秀雄が仁斎の「人ノ外ニハ道ナク、道ノ外ニ人ナシ」を、福澤諭吉の漢学の素養として視た。

福澤の教養の根底には、仁斎派の古學があった。「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」を言ふ時、彼は、仁斎の「人ノ外ニハ道ナク、道ノ外ニ人ナシ」を想ってゐた・・・(p.374,『小林秀雄全集12』)


福澤諭吉には、本音を書いた「痩我慢の説」と「丁丑公論」がある。「丁丑公論」では、西郷隆盛擁護の説が開陳される。

大義名分は公なり表向なり、廉恥節義は私に在り一身にあり。一身の品行相集て一國の品行と爲り、其成跡社會の事實に顯はれて盛大なるものを目して、道徳品行の國と稱するなり。(p.535,『福澤諭吉全集6』)

西郷は天下の人物なり。日本狹しと雖も、國法嚴なりと雖も、豈一人を容るゝに餘地なからんや。日本は一日の日本に非ず、國法は萬代の國法に非ず、他日この人物を用るの時ある可きなり是亦惜む可し。(p.553,同上)


小林秀雄の福澤観については、以下の「丁丑公論」と「痩我慢の説」に関する言及を参照してみよう。

福澤は「大義名分は道徳品行とは互いに縁なきものと云ふ可きのみ」とはつきり考へる。歴史的實社会に於ける両者の混淆、一致不一致と、両者の原理的区別とは、自ら別事である。西郷を、その自発的な「抵抗の精神」に思ひを致さず、賊とする者は、「恰も官許を得て人を讒謗する者の如し」「西郷は立國の大本たる道徳品行の賊」ではない。(p.339,『小林秀雄全集12』)

「痩我慢の説」は、「立國は私なり、公に非ざるなり」といふ文句から始まってゐる。
・・・(中略)・・・
世界各國の立國も、各國民の私情に出てゐることは自明な筈である。・・・
この物事の實を先づ確かめて置かないから、忠君愛國などといふ美名に、惑わされるのである。高が國民の私情に過ぎぬものを、國民最上の美徳と称するのは不思議である。(p.339,同上)

小林秀雄の「福澤諭吉」の要点をついた箇所である。


福澤への評価は二分されている。小林秀雄丸山眞男も、二人とも福澤諭吉への評価が高いことが、唯一の共通点である。


福沢諭吉の真実 (文春新書)

福沢諭吉の真実 (文春新書)


福沢諭吉の真実』で、平山洋は「現在なおも対立したままとなっている二つの評価、すなわち福沢を市民的自由主義者とする見方と、侵略的絶対主義者とする見方」と記している。


現代思想・臨時増刊<ブツクガイド日本の思想>』(青土社、2005,6)*1には、『古事記』から『意識と本質』まで49冊をとりあげている。16番目に『文明論之概略』があり「ひろたまさき」氏が解説している。副題が「「脱亜論」の道を用意した文明論」となっており、実際、「脱亜論」を福澤諭吉の『時事新報』記事より拡大解釈している。福澤諭吉の本質的なところを外している。どうしても、イデオロギー的に読めば「脱亜論」に行き着くのは、構造から抜け出ていないことの証明だ。


丸山眞男が、小林秀雄が指摘する福澤の「一身にして二生を経る」ことを「好機」「僥倖」と捉えた福澤の真意を理解していたことは、申すまでもないだろう。


拙稿は、小林秀雄から福澤諭吉を媒介として丸山眞男に言及している。丸山眞男は、あまりに巨大であり、全体像に迫ることは凡庸な私には難しい。小林秀雄については、長い間、一種の先入観によるコノテーションに捕らわれていた。表層ではなく、語られた「講演」と書かれた「言葉」から素直に小林秀雄を読み込むことを教わったのは、茂木健一郎『脳と仮想』であった。とりわけ、「講演」が小林秀雄理解を加速させた。茂木氏から、小林秀雄の『本居宣長』と『感想』*2の完読を要請されていると受け取った。自身のなかでは、如何に、丸山眞男とつながるかが最大の問題である。そこで、とりあえず、福澤諭吉に登場ねがったというわけだ。(むにゃむにゃ・・・)


脳と仮想

脳と仮想

*1:ISBN:4791711378

*2:小林秀雄ベルグソン論は、もちろん、ドゥルーズにつながる。