著作権とは何か


著作権』関係本が多いなか、福井健策『著作権とは何か』(集英社新書)は、盗作やパロディとなった様々な作品の裁判例をあげながら解説しているので大変分かりやすく、面白く読むことができた。出色の入門書である。


著作権とは何か―文化と創造のゆくえ (集英社新書)

著作権とは何か―文化と創造のゆくえ (集英社新書)


著作権に関する入門書は、法律の解釈を巡り、どちらかといえば、読み物として面白くないものが多い。もちろん、専門書に読み物的な要素を求めてはいけないけれど、「著作権」そのものが、新しい概念であり、しかも、法的にもさまざまな問題点が数多く残されている。その中で、本書は、「模倣とオリジナルの境界」と、「既存作品を自由に利用できる場合」の二つの章に多くを割いて、裁判事例などを紹介している。


「スイカ写真事件」「どこまでも行こう事件」「ライオン・キング事件」。『ウエスト・サイド物語』がシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』の模倣であることについて、また、著名なパロディ訴訟「白川義員vsマッド・アマノ事件」、「チーズはどこへ消えた?事件」、「脱・ゴーマニズム宣言事件」、「プリティ・ウーマン事件」など、具体的な事例に沿って、著作のオリジナリティとは何かを、読者に問いかけながら、説明している。個別事例は、大変おもしろく、参考になるので、できれば本書に直接あたっていただきたい。


福井氏は、「ソニー・ボノ法」(ミッキーマウス保護法)の違憲判決については、批判的に触れているし、この法律制定への反対者・ローレンス・レッシグ*1の『コモンズ』の「公共財」的発想に近い。「パブリック・ドメイン」(著作権の消滅したもの)が、創造の源泉になることを主張する。


コモンズ

コモンズ


福井健策の基本的な姿勢は、以下の引用箇所にまとめられている。

現代は、たしかに何がオリジナルか見えにくい時代ではあります。けれども注意深く眺めれば、私たちの社会のさまざまな表現活動のなかに、他の作品をもってはかえがたい独創性はあまた見出すことができるのではないでしょうか。それらは作家の才能と心血を注いだ努力の結晶であり、限られた人生を生きる私たちを永遠の時間へと結びつける糧となり、ときには世界を変える可能性すら秘めています。そして、そのオリジナルな表現を守ることが、新しい芸術文化が生まれつづけるために有益なのだ、ということが著作権という壮大な社会実験の根本理念です。(p.207)

また、「あとがき」には、次のように記されている。

ひと言でいえば、「守られるべき権利」と「許されるべき使用」のバランスという問いに還元できます。それは常に、「文化の創造とアクセス」への眼差しをもって考えられるべき問題です。(p.209)


文化の創造という視点から、「著作権」という法律が過剰に縛りをかけてはいけないということだ、と私は理解した。現代は、「複製芸術の時代」(ベンヤミン)であり、著作権法は遡及しても、18世紀以降に出てきた問題であり、本書の副題のとおり「文化と創造のゆくえ」が問題なのである。


たまたま、私は、欧米の文学・映画の理解には、「聖書とシェイクスピア」の知識が前提であることを考えていたところなので、そのシェイクスピアの脚本には種本があったという指摘は、既に知られていることであるが、著作権という概念自体がなかった時代に、新たな創造的解釈を加えた偉大なるシェイクスピアこそが、著作権を考える上での「メルクマール」になるというのも面白い。


著作権の考え方 (岩波新書)

著作権の考え方 (岩波新書)


同じ新書本としては、執筆当時は、文化庁著作権課長であった岡本薫『著作権の考え方』(岩波新書)と併読することで、いま、著作権の何が問題であるかを、法として制定する側にいた斉藤氏と、法解釈の実務家弁護士・福井健策の志向するところの差異が視えてくる。


■補足(2005年5月23日)

福井健策『著作権とは何か』は、著作権の基本的なところを押さえた上で、事例をあげているので、著作者、著作人格権、それに「著作権者の許可がいらない場合」の一覧(p.122−123)など基本は、しっかり書き込まれている。しかし、著作権について、より詳細に知りたい場合には、岡本薫『著作権の考え方』をはじめ、巻末の主要参考文献の概説・入門書のリストが参考になることを、補足しておきたい。

*1:著者はハワード・レッシグと記しているが、ローレンス・レッシグの間違いだろう。