蕨野行


雪が降るわらび野で、食べ物が尽きようとするとき、馬吉(石橋蓮司)はウサギ捕りに行こうとする。レン(市原悦子)は、「呆けたか、馬吉」と後を追い、彼の前で立ちはだかる。すると、馬吉が「レンよ、おめも食いたし」、レン「狂うたか」、馬「食うておれの腹に込めて、ともに死に着かん」、するとレン「もはや食うべき肉もなえやら」というと、馬「肉は要らず、おめの骨食うなり」と馬吉はレンに乗りかかる。馬「今世では馬庭の武右衛門に取られたが、その縁もすでに切れた。今こそ、ともに参ろう」、レン「どこへ参るか」、馬「二人添うて、来世へと参る」。降り積もった雪のなかに、二人は倒れる。哀切きわまりないシーンに、石橋蓮司市原悦子には一種のユーモアすら漂う、映画『蕨野行』を象徴する光景。


蕨野行 (文春文庫)

蕨野行 (文春文庫)



村田喜代子原作、恩地日出夫監督作品『蕨野行』は、深沢七郎楢山節考』のその後の「おりん」につながるとの思いで観始めたが、内容はまったく異なるものであった。設定そのものが似て非なるもので、どちらがどうという問題ではなく、ここはあくまで『蕨野行』に添って言及したい。


何よりも風景が美しい。その美しい自然のもとで生活する農民たちの、食料と人のバランスを考え、60歳を過ぎると、老人たちは「わらび野」に行くが、そこは村の近くであり、村へ降りてきて働くことによって食べ物を得ることができる。限りある資源を有効に使い、次の若者世代を生かすために考えられた仕組みである。姥捨て伝説は、ここではきわめて現実的に描かれるとともに、姑レンと、若い嫁ヌイ(清水美那)の「内面の会話」が、物語を進行させる。


ナレーションは、レンとヌイの会話で進む。庄屋の長男の後添として嫁いできたヌイは、まだ半年で、嫁として覚えるべきことを教えていないという思いがレンには心残りであり、また、ヌイは「夫よりもなお姑のおめのほうが、おれには慕わしかるよい」と想っている。古文調の韻文詩のようなことばのやりとりが、原作もそうであるが、映画では音として、作品に風格を付与している。


「わらび野」に行く60歳の老人は、八人。男三人、女五人。雨の日でも山から降りてくるジジ・ババたち。その内、歩行困難になった女性がまず他界する。その年に限って凶作の年となり、「ワラビ」の仕事納めが早められた。老人たちは、自らの力で野のウサギや鳥、川の魚を捕り、飢えをしのぎながらもやがて冬がくる。


全編、独特の方言で語られる『蕨野行』は、リアルな世界から幽玄の世界へ移行して行く。「生と死」の極限を、生活のスタイルを描きながら、自然のなかの人間の本質に迫り、美しく、悲しく、感銘を受けずに観ることができない。


市原悦子のレン役はいうまでもなく見事なもので、また、日本映画の脇役では岸部一徳と比肩するほど多くの作品に出ている石橋蓮司は、この映画では主役級の力演ぶりを示す。ベテランの恩地日出夫監督が、日本固有の民俗的な棄老伝説を村田喜代子原作による類まれなる「方言=ことば」を駆使して、実に秀逸な「生と死と再生」のフィルムに仕上げている。絶賛に値する映画だ。



村田喜代子の『鍋の中』*1は、黒澤明監督によって『八月の狂詩曲(ラプソディ)』と題して映画化されている。また、恩地日出夫は、『四万十川*2で、かつての青春映画の名手から、風格ある名匠的作家に変貌している。


村田喜代子『蕨野行』の文庫本から、冒頭の、レンとヌイの「内面のことば」のやりとりを引用する。全編が、こんな感じで進んで行く。実に、縹渺たる神韻のようである。

お姑(ババ)よい。
永えあいだ凍っていた空がようやく溶けて、日の光が射して参りたるよ。鋸伏山(ノコブセヤマ)を覆っていた雪も消え始め、山肌の残り雪がとうとう馬の形を現せり。まだ尻尾のところは出ずなるが、この数日の日和が続くとなれば、すぐ馬の姿も出来上がりつろう。春が参るがよい。

ヌイよい。
残り雪の馬が現れるなら、男ン衆の表仕事(オモテシゴト)の季節がきたるなり。田の打ち起こしが始まりつろう。裏の庭にもコブシの花が咲いた。大きな花が五十も百も、真白に満開なるよ。田打ちと申して、昔からコブシは百姓に田打つ仕度せよと知らせるやち。男だちが用意をするあいだに、女子(オナゴ)等は大豆選り分けて良き種を取り置いたか。味噌大豆を煮るべしよい。味噌は一年中欠かせぬものなれば、これを種播きの前の仕事とするやち。
団右衛門はこの里の庄屋なれば、男仕事の頭領。したら嫁のおめは女仕事の頭やち。テラにもいろいろ尋ねて相談し、名子、子作のかか等、下女だちを使うて、おれがしてみせたよにやるがよい。(p.7−8)

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