狼少年のパラドックス


またまた、内田樹の著書。

狼少年のパラドクス―ウチダ式教育再生論

狼少年のパラドクス―ウチダ式教育再生論

内田樹下流志向』に続いて出版された『狼少年のパラドックス ウチダ式教育再生論』(朝日新聞社, 2006)を取り上げる。著者の「あとがき」によれば、「『先生はえらい』は師弟関係の力学」であり、『下流志向』は「学力低下ニートの発生はグローバル資本主義の歴史的帰結であると論じた教育人類学的著作」であるという。


下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち

下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち


本書は、著者のブログ「内田樹の研究室」にリアルタイアムで書かれた教育に関する内容の文章を、主題によって、入試関係、大学の倒産等、ほとんどすべては著者が勤務する「神戸女学院大学」にかかわっている。従って、ウチダ式教育三部作のまとめは、大学教育の再生論になっている。


まず、内田氏自身の博士課程の勉強経験から、学校教育に言及する。

「こうしてばりばり勉強できるという『いいこと』が経験できるのは、いまだけかも知れない」という未来予測の不透明性ゆえに勉強していたのである。・・・(中略)・・・たぶんいまの学校教育でいちばん言及されないことの一つが、「学ぶことそれ自体がもたらす快楽」だということである。
(p.42-43)


学問することの楽しさについては、小林秀雄が、伊藤仁斎の塾に集まった商人は、道楽をし尽くした果てに、「学問ほど楽しいものはない」と触れていた。学問を等価交換の論理からいえば「面白い」はずがない。純粋に学問することの楽しさを、内田氏は述べているのだ。江戸時代の藩校などは、教育として見事にその役割を果たしていた。明治以降の近代化により、学校教育の均等化によって、教育の機会均等は保証されたものの、80年代以降の「グローバル資本主義の歴史的帰結」としての「下流志向」が現在の状況になってしまった。


内田氏は、「文化資本による社会の階層化に反対する立場」であることを主張し、

人間をその出自からも、身分からも、階層からも、信教からも解放し、その差別意識を廃し、知的閉域からの自由を得させるための「逃れの街」、「アジール」であるというのが学校の重要な社会的機能の一つではないのか。(p.137)

教える側が教わる側の知的ポテンシャルに対する期待と敬意を失ったら、教育はもう立ち行かない。だからむしろ、私たちが若い世代において涵養すべきなのは、こういう愚民的パブリシティを採用するような大学には「絶対行きたくない」と感じる知的センサーだと思う。(p.141−142)


大学の歴史的使命にまで言及している。内田氏は、教育再生についても即効的な処方箋を示していない。「教育」あるいは「学習とは何か」の本質論なのだ。とりわけ、最終章の「文部科学省訪問記」が現在の教育現場の問題を提起している。


それは「過剰な実学志向への危機感」「教養教育の再評価」「人文系の学問の重要性」と捉える。

「学ぶ」というのは努力と成果の等価交換ではないからだ。自分が何のためにそれを学ぶのか、自分が学んでいることにはどんな意味があるのか、を学び始めるときには何もわかならいというのが学びの構造である。(p.233)

先生はえらい (ちくまプリマー新書)

先生はえらい (ちくまプリマー新書)

内田流のいつもの論理である。

大学は生き物であり、某A,B,C大学等のように、学部増設の膨張=巨大化に向かうのではなく、各大学が、ダウンサイジングつまり定員削減をし、約700ある大学が倒産しないようにすべきであるという。企業の倒産と異なり、大学の倒産は地域文化を支える拠点を失くすことになり文化的損失になる。大学は研究機関であり、図書館であり、情報施設であり、スポーツ施設である。その大学が消滅することは、地域社会の損失になるという。

大学の在り方や、大学内の閉鎖的アカデミズム問題をかかえながらも、『狼少年のパラドックス』は留保つきだが、優れた「大学教育の再生論」になつているといえよう。


内田理論の理解のためには、『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)や『現代思想のパフォーマンス』(光文社新書)などを読むと、内田理論の理解に役立つ。


寝ながら学べる構造主義 ((文春新書))

寝ながら学べる構造主義 ((文春新書))

現代思想のパフォーマンス (光文社新書)

現代思想のパフォーマンス (光文社新書)