嗤う日本の「ナショナリズム」
- 作者: 北田暁大
- 出版社/メーカー: NHK出版
- 発売日: 2005/02/24
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』(NHKブックス)。
「国家、純愛、電車男・・・かれらはなぜハマるのか?」と本の帯にあり、「2ちゃんねる化する社会」を解読する方法として、60年代へ遡及して言及して行く。60年代的なるものの「反省」システムに拘束されすぎて、結果的に80年代論に収斂してしまったのは、著者の履歴から、やむをえないだろう。
アイロニーとシニシズムに侵されて行く80年代以降、つまり現代に接続するところの問題が提起されている。
嗤う日本の「ナショナリズム」とは、実存に「ナショナリズム」を下属させる、ナショナりズムからアウラを奪う不遜な実存主義だったのである。(p.223)
<実存に「ナショナリズム」を下属させる>、まあ、解らないことはないが。つまり、自分を優先させつつも「ナショナリズム」に関心を向けるが、その「ナショナリズム」には「アウラ」(ベンヤミン)がない、ということだろう。
235頁に、60年代以降を4区分し、「人物・出来事」「反省の形式」「人間(内面)の形態」ごとに、俯瞰的にまとめられている。しかし、この表を見ても、ポスト80年代の現在が、どのような問題を抱えているかの、この見取り図では分かりにくい。90年代〜2000年代を、「反省の形式」=「ロマン主義的シニシズム」、「人間(内面)の形態」=「内面なき実存」と規定している。感覚的にはわかる。
ポスト80年代を生きる私たちは、みなそれなりにアイロニカルであり、それなりに反省的・政治的なのだから。「アイロニカルであれ」という掛け声も「アイロニカルではなく主体的であれ」という掛け声も、アイロニカルで反省的なゾンビたちの紡ぎ出す言説の平面上を上滑りするしかない。そんな現在を私たちは生きているのではないだろうか。
(p.236−237)
「2ちゃんねる」化について以下の分析は、いかにもと、首肯はできる。
2ちゃんねる的世界のなかでは、あらゆる出来事・事象は内輪的コミュニケーションのネタとなるために存在しているのだ。(p.11)
連合赤軍から始めて、70年代の消費社会的アイロニズム。糸井重里のコピーライターとしての位置づけ、80年代の消費社会的シニシズム。テレビの前のナンシー関。そして、ポスト80年代へと、論文と書物の文献引用は多いのだが、如何せん、北田氏の語りたいことが見えてこないのだ。社会学的分析によれば、世代論とも読めてしまう、時代の風景・思想を、よく読みとっている、ようにも見えるが。
まあ、それでも、結論らしきものを引用しておく。
嗤う日本の「ナショナリズム」は、たんなる保守化・右傾化の症候ではないし、また端的なベタ化の徴候でもない。したがって、左派的イデオロギーの復権、アイロニーの回復といった処方は、たぶんそれほど意味をなさない。
いや、本当に処方箋を必要としているのは、医者(のつもりでいる人びと)のほうなのかもしれない・・・。歴史なき時代において、ということは処方箋=思想が敗北することースノッブ的否定の対象となることーを宿命づけられた時代において、それでもなお絶望せずに思想を語り続けること。(p.250)
文体の生硬さは、若さや経歴からその成熟度を図ることができる。にもかかわらず、敢えて、「ナショナリズム」を問題にしているならば、一本の筋を通すことが必要であろう。狭隘な共同体にすむ若者が、なぜ「愛国」と結びつくのか。自己の実存と世界が直接、結びつくという幻想。
著者の「あとがき」から引用してみよう。
ひとつは、《本書の課題は、「世界と自己との距離関係を測定する」行為としての「反省」を歴史的に振り返るものである。時代時代における「反省」の理念型を取りだしていくうえで、どうしても有徴的な素材ー「反省」と関連性の強い事象ーを選択してしまったことは事実であるが、方法論的な限界もある》というもの。
・・・(中略)・・・
もうひとつの意味は、書き手のパースペクティヴの限定性にかかわりがある。過去の記述が現在の「私」の視点に拘束される。(p.266)
なんだか弁解じみている。「方法論的限界」がありながら、なおかつ、方向を模索しているようだ、というのは解る。未来が視えないことの現れか。人間の本質的なものが、5年や10年レベルで、極端に変わるわけでもあるまい。表現される「言葉」が変容しているだけとも言えよう。それにしても、つねにシニシズム的であり、アイロニカルな「メタ」レベルから「ベタ」な表現をする人間とは、どういう存在なのだろうか。