カミュ『よそもの』きみの友だち


野崎歓カミュ『よそもの』きみの友だち』を読む。みすず書房「理想の教室」シリーズで、今月は、実存主義サルトルカミュの新たな、「読み」に挑戦している二冊が刊行された。『異邦人』として読んできたカミュの代表作を、野崎歓が『よそもの』として新解釈を試みている。


カミュ『よそもの』きみの友だち (理想の教室)

カミュ『よそもの』きみの友だち (理想の教室)


「理想の教室」シリーズの基本構成に従って、冒頭に新訳テクスト、3回講義=3部構成で、ムルソーの母の死、殺人にかかわるシーン、処刑決定後の神父との対話から全体の解読というスタイルをとる。

冒頭の著名な2行は、新訳では次のとおりになっている。

きょう、母さんが死んだ。きのうだったかもしれないが、わからない。老人ホームから電報が届いた。「ハハウエシス/ソウギアス/オクヤミモウシアゲマス」。これではさっぱりわからない。きっときのうだったのだろう。(p.6)


この一節がすべてを語っていることは、既に指摘されているところであろう。

「世界への優しい無関心」。ここにもまた、一見難解な、そして実に味わい深い表現があります。夜空も星も、死刑囚であるムルソー個人の運命になどもちろん何の関係もない。つまりこの世−この大地−には、人間と共通の尺度など何もない。世界は人間のためにできてはおらず、人間に対して閉じられている。つきつめれば、人間は世界にとっての「よそもの」にすぎない。これが小説の表題のいちばん大きな意味かも知れません。/しかしその世界を前にして、ムルソーは改めて強い喜びを覚えます。(p.142)


われわれもまた「よそもの」にほかならないことを著者は強調する。実存主義では、「不条理」と呼ばれた世界観。1942年に発行された『異邦人』(私はこのタイトルがいいと思うのだが)は、21世紀に入りむしろきわめて現実的な様相を帯びてきた。


異邦人 (新潮文庫)

異邦人 (新潮文庫)


内田樹は、ラカン理論の実践編に『異邦人』を選び、次のように読み解く。

『異邦人』では、物語の冒頭と終末部に決定的なことばが書かれている。・・・(中略)・・・これは、「母の不在」を「象徴秩序」において奪還することを拒否し、双数的=鏡像的な「同胞」との思想的融合に固着した主人公が、父性的権威によって「去勢=斬首」されるまでの物語である。ラカンが言うように、オイディプス神話が「第三者の介入による二項的世界の崩壊の神話的縮約」であるとするならば、『異邦人』は第三者の介入を峻拒し、あくまで二項的世界に踏みとどまろうとする幼児が、母と癒合し、父に去勢されて死ぬ反エディプスの英雄譚である。この物語は、成熟を促す父権的大気圧の下で萎縮していたヨーロッパの若者たちの欲望に点火した。(p.352『現代思想のパフォーマンス』)


現代思想のパフォーマンス (光文社新書)

現代思想のパフォーマンス (光文社新書)


「世界への優しい無関心」と「成熟」を拒否する若者とは、「ニート」そのものではないか。20世紀の人間像が、フランスの旧植民地アルジェを舞台にした虚構であったけれど、21世紀の読みは、それが現実になったことを示している。


サルトル『むかつき』ニートという冒険 (理想の教室)

サルトル『むかつき』ニートという冒険 (理想の教室)

嘔吐

嘔吐


「理想の教室」シリーズで同時発売された合田正人サルトル『むかつき』ニートという冒険』(未読)とともに、実存主義が、現代的問題として再浮上してきた。実存主義の読み直しが要請されているが、タイトルはやはり『異邦人』と『嘔吐』でなければなるまい。サルトルの著書の復刊や、再評価の動きがこのところ見えてきた。


サルトルの世紀

サルトルの世紀