私家版・ユダヤ文化論


ユダヤ人問題」とは永遠の謎だ。内田樹『私家版・ユダヤ文化論』を読むとますます「ユダヤ人問題」が、解らなくなる。ともあれ、内田氏の言説に従ってみよう。


私家版・ユダヤ文化論 (文春新書)

私家版・ユダヤ文化論 (文春新書)


ユダヤ人とは何でないのか」

第一に、ユダヤ人というのは国民名ではない。
第二に、ユダヤ人は人種ではない。
第三に、ユダヤ人はユダヤ教徒のことではない。


ふむふむ。そういえばイザヤ・ベンダサン山本七平日本人とユダヤ人』というかつてベストセラーとなった本があった。カール・マルクスにも『ユダヤ人問題によせて』(岩波文庫*1がある。


日本人とユダヤ人 (角川oneテーマ21 (A-32))

日本人とユダヤ人 (角川oneテーマ21 (A-32))


内田氏は、サルトルレヴィナスを援用しながら、「ユダヤ的知性」について、次のように言及する。

サルトルによれば、「ユダヤ人とは他の人々が『ユダヤ人』だと思っている人間であり、レヴィナスによれば、それは「神が『私の民』だと思っている人間」のことである。この二人のユダヤ人定義はまったく似ていないようであるけれど、ひとつだけ共通するとらえかたがある。/それはユダヤ人とはある種の遅れの効果だということである。/ユダヤ人はつねに自己定位に先立って、先手を取られている。サルトルによれば、ユダヤ人は自分が何者であるかを、主体的な「名乗り」によってではなく、反ユダヤ主義者からの「名指し」によってしか知ることができない。レヴィナスによれば、聖史上のユダヤ人が口にする最初の言葉は「私はここにおります」(Me voici)という応答の言葉である。/どちらの場合も、ユダヤ人は「すでに名指され」「すでに呼びかけられたもの」という資格においてレヴィナスの述語を借りていえば、「始原の遅れ」(initial apres-coup)を引きずって、歴史に登場する。/そのつどすでに遅れて世界に登場するもの。/それがユダヤ人の本質規定である。(p.188-189)


ユダヤ人 (岩波新書)

ユダヤ人 (岩波新書)

ユダヤ人は自分たちが「遅れて世界に到来した」という自覚によって、他の諸国民との差別化を果たした。私(内田)はそう考える。・・・ユダヤ人はむしろ、私たちが「被造物」としてこの世界に現に到来したという原事実から出発して、「造物主」が世界を創造したという「一度として現実になったことのない過去」を事後的に構築しようとしたのである。(p.214)


実際に罪を犯していないのに有責性がある、ユダヤ人とは「その民族史のどこかで『不条理』を引き受けられるほどの思考の成熟を集団成員へのイニシエーションの条件に課」したと、内田氏は結論づける。


さて、冒頭にもどり「ユダヤ人」から連想される名詞は、以下のように羅列される。

旧約聖書アウシュビッツイスラエルパレスチナ難民、中東戦争ネオコンドレフュス事件カバラー、タルム−ド、『シオン賢者の議定書』『アンネの日記』、『シンドラーのリスト』、『戦場のピアニスト』、スピノザカール・マルクスグルーチョ・マルクスフロイトレヴィナス、レヴィ=ストロ−ス、デリダアインシュタインチャップリンウディ・アレン、ポ−ル・ニューマン、マーラーアシュケナージスピルバーグポランスキー、・・・(p.18)


以上の名詞や人名から、ユダヤ人に課せられた「不条理」という言葉が、納得できるような気がする。むむっ!


レヴィナスと愛の現象学

レヴィナスと愛の現象学


「そのつどすでに遅れて世界に登場するもの。それがユダヤ人の本質規定。」、いかにも内田樹レヴィナス的発想。