サルトル『むかつき』ニートという冒険


みすず書房「理想の教室」シリーズの8月刊行、「実存主義」再評価の二冊目。合田正人サルトル『むかつき』ニートという冒険』は、いささかてごわい。というより、本書は、「理想の教室」からズレてしまっている。つまり、テクストの解読というこのシリ−ズの主旨からいえば、解読よりも、著者による解説になっている。その点、実に読みにくい。


サルトル『むかつき』ニートという冒険 (理想の教室)

サルトル『むかつき』ニートという冒険 (理想の教室)


構成は、冒頭のテクストと3部構成の解読という形式を踏んでいるが、『嘔吐』があえて『むかつき』に置き換える必然性が感じられない。むしろ、この書物からは、サルトルの難解さが強調される結果となっている。タイトル副題に「ニートという冒険」を付した理由が明快ではない。かつてなら「ロカンタンの冒険」の副題が適切であった。時代に迎合するには、「ニート」を使用することで読者に解かりやすくなっている、と期待させる。


ところが、合田氏の再読の勉強の成果を羅列しているのが、本書の特色であり、いささか鼻白む。レヴィナスハイデガーセリーヌスピノザ九鬼周造ポール・ニザンフロイトラカンベルグソンニーチェ木村敏、ピエール・ジャネ(精神医学者)、ドゥルーズガタリジンメル、ジャンケレヴィッチ、モーリス・バレス、埴谷雄高、カント、ライプニッツ、アンゲルス・シレジウス(17世紀ドイツ・バロック期詩人)、モンテニュー、バタイユカッシーラーフーコーマラルメ等々。これら哲学者、精神医学者、詩人、小説家、思想家たちの文献が巻末の参考文献には挙げられていない。


「きみたち」だの「センセー」などという易しい表現を用いる一方で、内容的には、著者の一方通行的専門書になっている。「理想の教室」で、ここまで専門的に解説する必要があるのかどうか。入門書としては、本書は読みやすいとは言えない。論文として見るならば、引用文献の豊富さ、言及する関係者の多彩さで、読み応えがあるだろう。しかし、フランス哲学に造詣がない一般読者にとって、「理想の教室」とは言いがたい。とは言っても、合田氏の『むかつき』解説の焦点にあたる箇所を引用しておく。

「むかつき」は、「私」が「実存」し、他の実存者と出会わざるをえないことそれ自体と不可分な、そして本質的にアンビヴァレントな感情・感覚であって、死の瞬間にはもはや「私」はいないから、死をもってしても「むかつき」から逃れることはできないし、「むかつき」はむずがゆさと同じく局所化することも、一義的に方向づけることもできないから「むかつき」を「昇華する」こともできない。むかつき」は「現実」と呼ばれるものとの漠たる異和であり、それは「現実」に対する強烈な嫌悪、脅迫神経症的な接触恐怖・不潔恐怖を、さらには、自己の醜悪さの投影による暴力と憎悪の連鎖を引き起こす一方で、「現実」「大人」と呼ばれているものの何たるかを批判的に考え、それを「擬制」として捉え直していく可能性でもある。(p.139-140)


30歳のアントワーヌ・ロカンタンは「ランティエ」という年金生活者であり、現代のニート感覚とは異なる。漱石の「高等遊民」に近いだろう。本書を読む前に、『ウィキペディアWikipedia)』の「嘔吐」および「サルトル」の項目をあらかじめ読んでおくことをお勧めする。


カミュ『よそもの』きみの友だち (理想の教室)

カミュ『よそもの』きみの友だち (理想の教室)


著者は解説(解読ではない)のあと、スピノザの「私は人間の諸行動を笑わず、嘆かず、呪うこともせずにただ理解することにひたすら努めた」を引用し本書を終えている。サルトルを読むために関係する思想家は本書から教えられるけれど、「ニートの冒険」は贔屓目にみても無理がある。しかし、実存主義の再評価は今こそ、大切なことだ。8月16日に触れた、野崎歓カミュ『よそもの』きみの友だち』が、不条理からニートに接近する新たな実存主義解読に有用であった。


サルトル―「人間」の思想の可能性 (岩波新書 新赤版 (948))

サルトル―「人間」の思想の可能性 (岩波新書 新赤版 (948))


さて、『嘔吐』については、海老坂武『サルトル』(岩波新書, 2005.5)の「Ⅰ.『嘔吐』から−出発点」がはるかに解かりやすい。引用しておこう。ロカンタンがマロニエの木の根を前にして感じるところだ。

ある日、マロニエの木の根を前にして、決定的な啓示を受ける。あらゆる<もの>が、人間が、すべて不条理であり無根拠であり偶然の産物であること、何の意味もなく<実存>していること、<吐き気>とはこうした<実存>を前にしたときの意識の反応であること、こういうことを理解する。(p.6)

海老坂氏の「『嘔吐』から−出発点」が、読みやすくかつ核心をついている。