『悪霊』神になりたかった男


みすず書房「理想の教室」から、2冊目を読了。


『悪霊』神になりたかった男 (理想の教室)

『悪霊』神になりたかった男 (理想の教室)


亀山郁夫『『悪霊』神になりたかった男』は、スタヴローギンの「告白」を中心に、ドストエフスキーの思想=「神の不在」が分析されて行く。冒頭には『告白』のテクストが掲げられ、読者にまず、このテクストを読むことが要請される。「資料1」として「私は神様を殺してしまった」と題する、亀山氏の新聞掲載の短文がとりあげられる。極論すれば、この「資料1」を、より詳しく解説するために、全編が費やされている。「資料1」*1を全文引用すればいいのだが、それでは、本書のエッセンスを引き写すだけになるので、亀山氏の読み込みの深さをたどりつつ、ドストエフスキーは優れて21世紀的な作家であることを改めて再認識させられたことに触れたい。


ドストエフスキーの詩学 (ちくま学芸文庫)

ドストエフスキーの詩学 (ちくま学芸文庫)


ドストエフスキーを論じるには避けて通れない書物は、いうまでもなくミハイル・バフチンの『ドストエフスキー詩学』(ちくま学芸文庫)だろう。

長編小説や短編小説を書いた一人の作家=芸術家のことではなく、ラスコーリニコフとかムイシュキンとかスタヴローギンとかイワン・カラマーゾフとか大審問官とかいった、何人かの作家=思想家たちによる、一連の哲学談義なのだ・・・(p.013)
それぞれが独立して互いに解け合うことのないあまたの声と意識、それぞれがれっきとした価値を持つ声たちによる真のポリフォニーこそが、ドストエフスキーの小説の本質的な特徴なのである。(p.015)


いわゆる「ポリフォニー」論だ。亀山郁夫は、ミハイル・バフチンの「ポリフォニー」を踏まえながら、『悪霊』について、スタヴローギンの視点、印刷された「告白」を読むチーホン僧正、陵辱された14歳の少女マトリョーシャの「恋」、などを複線的に、読み込む。


『悪霊』は周知のとおり、「ネチャーエフ事件」を素材として、ドストエフスキーの内面に巣くう堕落への希求と「神」への羨望を、スタヴローギンに仮託した小説である。

いきなりだが、亀山郁夫の結論とは、以下のとおり。

私の結論はこうです。ドストエフスキーは、ルソーの『告白』から引用した「肉欲」、「恐怖よりも強い」快感の存在を、他ならぬマトリョーシャのうちに認めていた。そして彼女がうわ言の中でつぶやく「神さまを殺してしまった」という一言のなかには、苦痛を快楽と感じてしまう罪深さからくる恐怖の感覚もまた含まれていたのではないかということです。・・・(中略)・・・マトリョーシャは、性という恐ろしい快楽の秘密をはじめての折檻による痛みをとおして知った。・・・(中略)・・・もしも、この仮説が正しいとなると、・・・(中略)・・・二人は、死刑執行人と死刑囚の、権力者と犠牲者の敵対しあう関係ではない。同罪です。・・・(中略)・・・二人は楽園を追われたアダムとイヴなのです。ですから、ともに縊死を選ぶのは理由があるのです。「神さまを殺した」のは、たしかに蛇=スタヴローギンが仕組んだ罠だったかもしれません。しかしその蛇は、マトリョーシャ自身の体のなかにも棲みついていた。彼女自身がそういう自覚を持ったのです。・・・(中略)・・・二人の死は、あるいは心中とも呼ぶことのできるものです。(p.141−143)


もちろん、「告白」についての一つの解釈であり、「『告白』のテクストは、繰り返し言いますが、いくつもの真実を同時に隠しもつ、永遠に解くことのできない、開かれたテクスト」(146頁)なのである。とは言っても、亀山郁夫の結論は、衝撃であった。


結論だけ引き写して終わりでは申し訳ない。スタヴローギンの「告白」からドレスデンの美術館の絵画に言及する箇所を引用する。

まったく思いがけない夢を見た。というのもそうした類の夢をいまだかって見たことがなかったからだ。ドレスデンの画廊にクロード・ロランの絵がある。カタログではたしか『アキスとガラティア』だったと思う。しかし私はいつもそれを「黄金時代」と呼んでいた。(p.29)


亀山郁夫によれば、ドストエフスキーは、ドレスデンの美術館でこの絵を観たとき、癲癇の発作に近い「万物調和の感覚」を得たと推測し、その経験を、スタヴローギンの「告白」に「投影した」*2とする。スタヴローギンの「黄金時代」とは、「永遠の相に触れ」た「既視感」だと、亀山氏は指摘する。その文章の直後、スタヴローギンが「生まれてはじめて文字どおり涙に濡れた」と記している。


この瞬間を、亀山氏は「スタヴローギンが精神的な再生へと、神の恩寵へ」限りなく近づいたときだと。『悪霊』に救いがあるとすれば、ここにしかないだろう。しかしながら、スタヴローギンは縊死を選択する。ドストエフスキーの本質的な深さと怖さが現れているといっていいだろう。亀山氏に導かれて、『悪霊』を再読した気分になり、大きな収穫だった。いつか、ドストエフスキーを再読するときのために。


(参考)クロード・ロラン『アキスとガラティアのいる風景』

ドストエフスキー 父殺しの文学 (上) (NHKブックス)

ドストエフスキー 父殺しの文学 (上) (NHKブックス)

ドストエフスキー 父殺しの文学 (下) (NHKブックス)

ドストエフスキー 父殺しの文学 (下) (NHKブックス)

*1:亀山氏は短文の最後に、9・11に触れ『悪霊』の一節に思いをはせるとともに、「神は死んだ」と感じ、TVを見ているわれわれ全員が神になった錯覚に囚われたという。

*2:ドストエフスキーの癲癇発作による「万物調和の感覚」は『白痴』のムイシュキンに最も色濃く反映されている。スタヴローギンとムイシュキンはポジとネガの双子の兄弟といえよう。