亀山訳・カラマーゾフの兄弟


亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟1〜5』(光文社古典新訳文庫、2006.9-2007.9)を読了した。人生のなかで、このような大長編を読む機会は少ない。


カラマーゾフの兄弟 5 エピローグ別巻 (5) (光文社古典新訳文庫)

カラマーゾフの兄弟 5 エピローグ別巻 (5) (光文社古典新訳文庫)


ドストエフスキーは、『罪と罰』に始まり『地下生活者の手記』『悪霊』『白痴』と読み進めたが、『カラマーゾフの兄弟』のみ、読み終えていなかった。「大審問官」の章は読んでいたが、今回、亀山郁夫の新訳で9月末から読み始め、11月25日の今日まで延べ2ヶ月を必要とした。もちろんこの間、『カラマーゾフの兄弟』だけを読んでいたのではなく、気になる本を併行して読んでいた。


カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)

カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)


ドストエフスキーへの傾斜は、小林秀雄からではなく江川卓でもなく、埴谷雄高の作品からであった。<「父殺し」の文学>として捉えていたのではなく、文学作品の中で形而上学を語ることができること、埴谷雄高のことばを借用すれば「観念の自己増殖」をドストエフスキー作品のなかにみたからである。


死霊(1) (講談社文芸文庫)

死霊(1) (講談社文芸文庫)


埴谷雄高『死霊』で三輪与志のいう<虚体>を通じて、ドストエフスキーを読むといういわば変則的な読み方をしていたわけで、スタヴローギンやムイシュキンが一瞬の法悦を得る癲癇は、ドスエフスキーを解く鍵になることを予感していた。


『悪霊』神になりたかった男 (理想の教室)

『悪霊』神になりたかった男 (理想の教室)


2005年みすず書房「理想の教室」シリーズで、亀山郁夫『『悪霊』神になりたかった男』を読み、自分のなかで再び、ドストエフスキー的問題が浮上した。そして、光文社古典新訳文庫の第1回配本として『カラマーゾフの兄弟1』が2006年9月に刊行された。早速購入し2007年7月『カラマーゾフの兄弟4・5』の最終配本が終えて、長編を読むという意気込みのもと、9月から読みはじめた。


ドストエフスキーの詩学 (ちくま学芸文庫)

ドストエフスキーの詩学 (ちくま学芸文庫)


読了後、亀山氏の「解題」を読むと『カラマーゾフの兄弟』が孕む問題の大きさに眩暈を感じる。神の存在の有無や、小説で形而上学を展開できることなどにドストエフスキーの作品の深さをみていたが、バフチンのいうポリフォニー理論からみること、あるいはドストエフスキーが生きた時代やロシアという固有性を排除し、テクストとしてドストエフスキー作品を読むことも可能なはずだ。


ドストエフスキーが、『カラマーゾフの兄弟』の中でアリョーシャを「わたしの主人公」と表現している。しかし実際に完結した『カラマーゾフの兄弟』では、イワンとミーチャの兄達が主人公的存在となっていて、アリョーシャは未知数の狂言回しにとどまっている。ドストエフスキーが「わたし」と書く場合の「わたし」とは誰か。登場人物の全員を見ている人物とは、作者にほかならない。


<「父殺し」の文学>というとき、現実的位相というより抽象的レベルで語るべきで、「父に象徴されるもの=絶対的な権力を持つもの」として捉えることで、21世紀の現在にも通じる問題を提起しているとすべきだろう。亀山郁夫は、「解題」のなかで次のように記している。

「父殺し」とは、物理的に父親を殺すことではなく、何かより根源的に人間の心に宿る、他者の死への願望であり、兄ドミートリーにも自分にも宿っている、そういう発見が、イワンのなかにあったことになる。(p.326「解題」)


多様な読みを可能性としてみれば、文芸文庫の一冊として刊行された『鰐』が、もうひとつの方向を探るテクストになりそうだ。


鰐 ドストエフスキー ユーモア小説集 (講談社文芸文庫)

鰐 ドストエフスキー ユーモア小説集 (講談社文芸文庫)


また、安岡治子新訳の『地下室の手記』(光文社古典新訳文庫、2007.5)も「地下生活者」の再読という意味で控えている。ドストエフスキーの作品は「どれひとつ、われわれの「生」のありようと無縁なテーマはない」(亀山郁夫)と考えれば、19世紀ロシアと21世紀の現代は深くつながっているのだ。


地下室の手記(光文社古典新訳文庫)

地下室の手記(光文社古典新訳文庫)