ドストエフスキーと恋愛


亀山郁夫訳のドストエフスキーカラマーゾフの兄弟4』を読書中。


カラマーゾフの兄弟 4 (光文社古典新訳文庫)

カラマーゾフの兄弟 4 (光文社古典新訳文庫)


第三部では「ミーシャ」が父殺しの容疑で逮捕される。第四部第10編「少年たち」まで読了した。アリョーシャと少年コーリャとの交流は続編への布石か。いよいよ物語は終幕に向かい佳境に入る。第11編「兄イワン」第12編「誤審」、それに「エピローグ」が控えている。


ユリイカ2007年11月号 特集=ドストエフスキー

ユリイカ2007年11月号 特集=ドストエフスキー


ユリイカ』2007年11月号「特集・ドストエフスキー」が発売されたので購入しておいたのを眺める。その中に、小谷野敦ドストエフスキーと恋愛」が寄稿されている。一読、この小論によって小谷野敦が単なる「ゴシップ評論家」に過ぎないことを自ら証明してみせた。


小谷野敦については、もはや二度と触れたくなかったが、いそいそと購入した『ユリイカドストエフスキー』で、あまりに場違いな文学者=批評家とも思えない「ゴシップ」感覚の作文が掲載されているのに驚いたからだ。

要するにドストをおもしろがることと、ギリシア正教に帰依し関心をもつこととは不可分なのではないかと思える。(p.162『ユリイカ2007年11月・ドストエフスキー』)


亀山郁夫がいう「ドストエフスキーの父殺し」に関連して、偉大な父を持たないものは父親殺しとは無縁であると小谷野敦はいう。

中上健次が「父殺し」の主題を持ちえたのは、中上の父が事業的な成功者だったからで、ただの凡庸な父親を持っていたら、父殺しもくそもない。柄谷行人が『地の果て 至上の時』を評価できるのは、柄谷の実家が、柄谷工務店という、神戸一帯で手広く事業をする会社だったからだろう。(p.163、同上)


文学をこのレベルで論じるなら、成功者の子供は優れた「作家」や「評論家」になれるというとんでもない評価軸をもつことになる。小谷野の論理に従えば、英米文学はキリスト教に造詣が深くなければ、深く読むことができないことになる。小谷野が「比較文学」者だとすれば、小谷野敦はとっくに優れた作品・評論などを残していなければならい。唯一、読むに値するのが『もてない男』(ちくま新書)一冊が、この人の実力だ。小谷野敦に触れるのは今回を最後にしたい。論ずるに値しない「ゴシップ」屋にすぎないことを自ら証明してみせたのだから、以後、このひとの作文は読まないことにする。


最後に一言、小谷野敦氏、読者を馬鹿にしてはいけない。大学専任教員批判をするより、在野の碩学山本義隆氏や長谷川宏氏を見習って欲しい。山本義隆は『磁力と重力の発見1・2・3』(みすず書房、2003)、『一六世紀文化革命1・2』(みすず書房、2007)の著作があり、長谷川宏氏は『精神現象学』(作品社、1998)に代表される一連のヘーゲルの翻訳本が多数ある。地道な研究こそが成果を生む。「ゴシップ」批評で世評を挙げた例などない。


カラマーゾフの兄弟 5 エピローグ別巻 (5) (光文社古典新訳文庫)

カラマーゾフの兄弟 5 エピローグ別巻 (5) (光文社古典新訳文庫)


亀山郁夫氏が一年半かけて翻訳した『カラマーゾフの兄弟』の「エピローグ別巻・訳者あとがき」で次のように述べている言葉に注目したい。

これほど解釈がわかれ、はかりしれない深みへと心を誘いこむ小説にはなかなかお目にかかれない。グロバリゼーションという現代の状況からはるかに遠い時代に誕生した小説ではあっても、どれひとつ、われわれの「生」のありようと無縁なテーマはない。小説が書かれた農奴制崩壊後の十九世紀ロシアの混沌と、現代が深い地下水脈でつながっているのだ。ドストエフスキーこそが、その隠された水なだ・・・。(p.363『カラマーゾフの兄弟5』)


『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する (光文社新書)

『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する (光文社新書)


小谷野敦につきあうより、早く亀山訳『カラマーゾフの兄弟』を読了し、亀山郁夫ドストエフスキー』(文春新書、2007.11)『『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する』(光文社新書、2007.9)を読みたい。


ドストエフスキー―謎とちから (文春新書)

ドストエフスキー―謎とちから (文春新書)