映画版『アンナ・カレーニナ』は、トルストイ作品解釈に一石を投じた
アンナ・カレーニナ ヴロンスキーの物語
トルストイ原作『アンナ・カレーニナ』はこれまでに何度も映画化されている。
カレン・シャフナザーロフ監督の『アンナ・カレーニナ ヴロンスキーの物語』(2017)は、日露戦争時代に時間を設定し、アンナ死後30年後、ヴロンスキーの視点から見たアンナの死の謎に迫る作品になっている。
舞台は満州、足を負傷したヴロンスキーは、医師セルゲイ・カレーニンに治療を受け、母について尋ねられる。
この映画も、アンナとヴロンスキーの関係に焦点を当てているのは、映画版『アンナ・カレーニナ』の系列に連なる。
ロシア文学の文豪と言えばトルストイとドストエフスキーの二人に代表される。実際、ドストエフスキーは、『罪と罰』『地下生活者の手記』『悪霊』『白痴』『カラマーゾフの兄弟』を、学生時代に読み、光文社から古典新訳文庫で亀山郁夫訳の『カラマーゾフの兄弟』を再読している。また第一作『貧しい人々』も読む。
その他短編など読み、『未成年』(新潮社文庫)と『死の家の記録 』(光文社古典新訳文庫)が未読であり、文庫本を準備している。
一方、トルストイは中編『イワン・イリイチの死』(光文社古典新訳文庫)を読み、この作家の世界観の広さと深さは了解していたので、望月哲男訳の『アンナ・カレーニナ』』(光文社古典新訳文庫)を、遅ればせながら読み始めた。
第一部では、アンナの兄オヴロンスキーの浮気がばれて妻ドリーの怒りが収まらない様子と、リョーヴィン、キティが中心に貴族の家族の生活などが仔細に記述される引き込まれる。これだけで物話にひきこまれる。
ヴロンスキーは、やや遅れて登場し、アンナと同じ列車でモスクワに到着する。
キティとリョーヴィンが参加する舞踏会にアンナとヴロンスキーも参加しており、伊達男で美男子ヴロンスキーにアンナとキティは魅了される。今でいえばイケメン男性、男前つまり外見に惹かれるわけだ。
トルストイが、美男子ヴロンスキーと対比的に、普通の知的貴族であるリョーヴィンの思考や性格を対比させたのが、良く分かるところだ。
「幸せな家族はどれもみな同じようにみえるが、不幸な家族にはそれぞれの不幸の形がある」これは原作『アンナ・カレーニナ』の冒頭に記述される有名な警句だ。カレーニン家とリョーヴィン家の比較を冒頭に暗示している。
原作の翻訳は、前出の光文社古典新訳文庫で現在、第3部を読書中なので、また映画に戻る。
アンナ没後30年のヴロンスキーは、カレンの息子から母アンナとは実際どんな経緯があったのかを尋ねられたのを契機に、アンナとの出会いから彼女の悲惨な死までを回想してゆく手法をこの映画はとっている。
あくまで、「ヴロンスキーの物語」として描かれている。ヴロンスキーは遠い過去ではなく、あたかも現在進行形であるかのように感慨深く、アンナ夫人との出会いから瞬時に恋に落ちたことから、アンナとの燃えるような恋愛は、アンナの自殺を迎えることに、深い反省とともに自らの陶酔も反復する。
華やかで豪華な舞踏会や、オペラ劇場の19世紀的な歴史的雰囲気を見事に再現している。ヴロンスキーは現在の満州での生き方を清算すべく、ロシア軍の撤退に同行しない。やがて日本軍の攻撃を受けるであろう結末になっている。
原作では、カレーニン家族とリョーヴィン家族の二つがあまり交わることなく、別世界、換言すればカレーニン家の「不幸な家族」とリョーヴィン家の「幸せな家族」との対照的な生活の様子が描写されていた。それはヴロンスキーという異世界の美男子が、カレーニン家のアンナという貴婦人に強烈に惹かれ、また同時にアンナ夫人もまたヴロンスキーこそ愛すべき男と瞬間に察知した。ヴロンスキーの登場が全てを変容させた。とすればヴロンスキーの物語と読むことも可能である。
それは悲劇の始まりであったが、官能的な世界の戯れでもあった。どうしても読者あるいは、映画を見る者にとって最も関心を示す点である。ここから「ヴロンスキーの物語」が映画として試行する可能性を見出した。
以下に、映画版『アンナ・カレーニナ』DVD版を列挙するが、グレタ・ガルボ以来、ヴィヴィアン・リー、ソフィー・マルソー、キーラ・ナイトレイなど数多く映画化がなされている。しかしながら、ヴロンスキーの視点から描いたのは、今回が初めてであり、トルストイを多様な側面から捉える一面となる作品である。
『アンナ・カレーニナ』映画版例