街のあかり


アキ・カウリスマキの敗者三部作・第三部『街のあかり』(2006、フィンランド)を観る。<失業>の『浮き雲』、<ホ−ムレス>の『過去のない男』、そして締めくくりは<孤独>。警備員コイスティネン(ヤンネ・フーティアイネン)は、孤独な夜の警備員。華やかな街となったヘルシンキの影の世界に住む男。冒頭、夜警勤務途中で3人のロシア人が「みじめさ」について、ロシアの文豪や音楽家を例に出す会話を交わす。


街のあかり [DVD]

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「ミジメといえば、ロシアの作家ゴーリキーだ」「チャイコフスキーも身投げした」「でも助かった」「だが人生が一変した」「お前に何がわかる」「トルストイは伯爵だが誤解された」「チェーホフは貧乏人を理解したら死んだ」「プーシキンなんて短命で、生まれたと思ったら死んだ」「ゴーゴリーはちょっと別だ。彼の”鼻”はいまも影を落してる。太陽も見えない」「恋人のいる窓も」「ウォッカ飲むか?」「どうするかな」(『アキ・カウリスマキ』(愛育社、2007), p.205)


アキ・カウリスマキ

アキ・カウリスマキ


このなにげない会話の中から『街のあかり』の主題が視えてくる。「生きることを肯定すること」。コイスティネンは警備会社の中でも仲間や上司から嫌われている。友達が一人もいない。夜のバーで酒を頼んでもすぐ追い出される。いつも孤独でひとりぽっち。けれども一日の終わりの夜明けに、ソーセージ屋に立ち寄るとアイラ(マリア・ヘイスカネン)がいる。彼女に対してだけ、自分の希望、管理会社を持つ夢を語る。もちろんホラ話だ。


そんなコイスティネンに美しい女性ミルヤ(マリア・ヤルヴェンフェルミ)が接近してくる。目的はマフィアのボス(イルッカ・コイヴィラ)の背後にある悪意によるもので、警備員が知る宝石店の暗証番号を引き出すためだった。利用されあげく果てに、窃盗容疑で刑務所に入ることになる。しかし、コイスティネンは恋人を思い詰めたミルヤのことは一言もしゃべらない。


刑期を終えて街へもどり、簡易宿泊所に泊まりながらレストランの皿洗いの仕事につく。客としてマフィアのボスとミルヤをレストランで発見するが、逆にマフィアの連中に瀕死の重症を負わされる。まったく救われない男だ。コイスティネンが倒れているところへ、アイラがかけつける。


「死なないで」とアイラがいうと、「ここでは死なない」とコイスティネンは答える。画面は二人が手をつなぐショットをクローズ・アップさせて終わる。ラストの救いのシーンが一条の希望の光であり、アキ・カウリスマキのフィルムに一貫している。


固定ショットや赤の配色、更には同じようなテーマが繰り返されるのは、小津安二郎の作品を想起させる。小津作品から日本の現実というより文化や習性が伺われるように、カウリスマキ作品からはフィンランドの文化や生活習慣を伺うことができる。それでいて普遍性が獲得されている。


長屋紳士録 [DVD] COS-019

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■以下は、「アキ・カウリスマキ」について書いた「覚書」から。


フィンランド映画の鬼才アキ・カウリスマキが、はじめて日本に紹介されたのは1990年のことであった。『真夜中の虹』と『レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ』の2本によって、北欧の一風変わった奇妙な(ヘンな)作家という印象のみが強く残された。アキ・カウリスマキは、1957年ヘルシンキ生まれ。彼が登場するまで、私達にとっての北欧映画とはイングマール・ベルイマンにほかならなかった。フィンランド映画の出現自体が、奇蹟としかいいようのない状況だったのだ。『マッチ工場の少女』が、カウリスマキの存在を決定づけたといえよう。全編をとおして、ほとんど言葉を交わすこともない、貧しく不幸な女性を、ここまで徹底して描ききることは容易ではない。物語は、単純にして明快。マッチの製造工程が、ドキュメンタリー・タッチで丹念につづられる冒頭のシークエンス。少女イリスは、黙々と仏頂面で仕事をこなしている。バスに乗り、買物をして帰宅する。両親と無言の食事。このような日常生活が淡々と続き、イリスが短い台詞を口にするまでおよそ20分。サイレント映画のような撮り方で、フェイド・アウトのリズムが、心地よく快調である。ダンス・ホールで数名の女性に混じって、イリスが男の誘いを待っている。周囲の女性は次々と男に誘われホールに消えてゆき、ダンスを踊る影がイリスの背後の壁に映されるのに、彼女は最後まで壁の花。台詞がなくても人物の画面への出入りだけで、ある情景を説明してしまう手腕は見事である。プレイボーイ気取りの男に誘われ一夜をともにするが、妊娠したイリスはあっさり捨てられる。男に復讐するためにイリスは薬局で、殺鼠剤を買う。「効き目はどう?」「イチコロよ」「ステキ」、ブラック・ユーモアの極致である。上映時間70分、ミニマム・フィルムの傑作。



コントラクト・キラー』では、ヌーヴェル・ヴァーグを代表する俳優ジャン=ピエール・レオを起用。ロンドンの水道局で働いていたレオは、民営化による人員整理のため、解雇される。山のように積まれていた書類が、すっかりなくなった机の前に座っているレオ。やがて、その机も運び去られる。それを見ている無言で無表情のレオは、悲哀を滑稽さで包み込んでいる。レオは、自殺を試みるが、ことごとく失敗し、ついに殺し屋に、自分の殺人を依頼する。ところがその翌日、花売り娘に一目惚れをしてしまった。殺し屋に追われながら、恋人との逃避行。恋人の微笑み以外は、登場人物すべてが、無表情で言葉少なく、即物的な描写が続く。ロンドンの街並が、北欧のヘルシンキを彷彿させるほど、寒々しい。テーマは、失業・自殺・病気(殺し屋は癌に侵されている)など暗いけれど、不思議とおかしみのある雰囲気を持つ悲喜劇であり、予想外に幸福な結末が用意されている。



『ラヴィ・ド・ボエーム』の舞台は、パリ。芸術家の3人組は、ボヘミアン暮らしの画家・音楽家・作家である。売れない、貧乏、プライドが高いと三拍子揃っているから、始末が悪い。それでも、憎めない、むしろ愛すべきキャラクターの持ち主たちだ。それぞれの恋人を連れて、郊外へピクニックにでかけるシーンは微笑ましく、いとおしい。カウリスマキが使う俳優たちは、決して美男・美女ではない。アクが強く良くいえば個性的な性格俳優、ハリウッド映画では、とても主役になれない役者さんたち。だからこそ、映画の人物に親しみが湧いてくるのだ。『ラヴィ・ド・ボエーム』は、古き良きルネ・クレールの世界を、現代に再現しようとしている。パリの屋根を捉えたキャメラは、前近代的な風情を残す建物を、ゆるやかに移動してゆく。ノスタルジックな悲劇であり、ラストに流れる日本語の歌「雪の降る街を」は、あまりの唐突さゆえに、わびしさを誘う秀逸な選曲となっている。


白い花びら/愛しのタチアナ [DVD]

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『愛しのタチアナ』は、再びフィンランドに戻り、中年にさしかかった男2人が、車で旅にでる。マト・ヴァルトネンは、いつもコーヒーを飲み、マッティ・ペロンパーはウオッカをがぶ飲みする。そのふたりに、エストニア出身のタチアナ(カティ・オウティネン)とロシア出身のクラウディアが出会い、四人が一つの車で、旅を続ける。男女4人の、無愛想ながらも、ほのぼの・しみじみロード・ムービーとして、簡潔をきわめた作品。愛すべき62分のシンプル・ラヴ・ストーリーであった。タチアナ役は『マッチ工場の少女』のイリス=カティ・オウティネンのその後の姿でもある。ここでは、ささやかな、ハッピーエンドが用意されている。そのイリス=タチアナ=カティ・オウティネンが、最高の魅力的女性に変貌し『浮き雲』に登場する。


真夜中の虹/浮き雲 [DVD]

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夫は市電の運転手、妻はレストランの給仕長。まず夫がくじ引きにより失職し、次いで妻もレストラン廃業のため失業する。夫婦の職探しがスタートする。極端に少ない台詞、無表情、無愛想、それでも夫婦愛は、見る者の心にひびく。例えばこんなシーンがある。夫婦が一緒にアパートに帰る。夫は妻のコートを脱がせながら、目隠しをする。居間のソファまで目隠しをしたまま連れてゆき「どうだ」といって、リモコンつきテレビを見せる。妻は「うれしい」と答える。おおげさな動作など全くなく、ほとんど無表情だが、よく見ればかすかに喜びのしぐさが窺える程度のものである。今時テレビくらいでと、馬鹿にしてはいけない。つつましい生活のなか、精一杯の贅沢なのだ。


夫婦の職探しは、困難を極める。ラスト近く、二人で自分たちのレストランが持てる恩寵にめぐまれる。開店初日、果たして客がくるかどうか、ハラハラ・ドキドキのサスペンス仕立て。何度か期待が裏切られ、また期待するといったシーンが繰り返され、ついに客がきて注文を受ける光景は、映画の約束事が守られる瞬間でもあり、万感の思いが達成される。夫婦が、空を見上げるラスト・シーンは、カウリスマキの最も素敵なカットとなるであろう。アキ・カウリスマキとは、失業と職探しが困難な時代を、ハードボイルド・タッチで、シンプルに、抑制のきいた即物的描写のなかに暖かいまなざしが感じられる、稀有のシネアストなのである。


罪と罰 [DVD]

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2003年には、初期作品を含めたレトロスペクティヴがあり、アキ・カウリスマキの原点とも云うべきフィルムを観る機会が得られた。処女作がドストエフスキイの『罪と罰』、いかにもアキ・カウリスマキ風にアレンジした問題作として、時代と背景を、1983年現在のヘルシンキに置き変えられているけれど、原作の意図は見事に映像化されている。第一作から、常連となるマッティ・ペロンパーが出演しているのは、嬉しい。第二作『カラマリ・ユニオン』は、フランクという同じ名前の労働者たち15名が、<最後の晩餐>を経てヘルシンキユートピア=エイラへ向かう。モノクロ画面で展開される物語は、シュールであり、ク−ルであり、唐突であり、荒唐無稽であり、にもかかわらず、傑作であることを確認した。フランクたちは、次々と不条理に殺されて行く。夢の場所は、荒廃した海に過ぎなかった。いわば、完全なる悲劇にして喜劇的表現に徹するのは、カウリスマキ的フィルムの特徴であり、凝縮された作家の原像が視えてくる。


カラマリ・ユニオン [DVD]

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『パラダイスの夕暮れ』は、2002年のカンヌで主演女優賞に輝くカティ・オウティネンの初登場作品。マッティ・ペロンパーとの初コンビにして、その後のコンビ作に通じる寡黙なる貧乏な恋愛を描く原点。『ハムレット・ゴーズ・ビジネス』で、シェイクスピアの翻案を現代の経営者の家族として描いているが、ハムレットの最後の台詞には隠された原作の持つ<悪意>を表出している。初期作品はすべて見応えがあり、アキ・カウリスマキの才能と資質を十分に堪能させられる。



『浮き雲』に始まった現代フィンランドを舞台にした新三部作の第二作が『過去のない男』(カンヌ映画祭・監督賞受賞)。新三部作の特徴は、悲惨な状況の中でもユーモア溢れる構成で、ハッピーエンドに終わり、観る者にささやかな幸福感をもたらす。『パラダイスの夕暮れ』の主人公のように突然の理不尽な暴力に会い記憶を失った男が、献身的な女性カティ・オウティネンによって救われる。相変わらず寡黙であり貧困でもあるが、至福の人生がここにあるのだ。


この作品の受賞によって、アキ・カウリスマキの国際的評価が高まったけれど、『罪と罰』から『白い花びら』まで12作品に出演していた貴重な俳優マッティ・ペロンパーが1997年に惜しくも他界したことも記しておかねばなるまい。故マッティ・ペロンパーが、『浮き雲』と『過去のない男』では、写真の中に登場していることを申し添えておきたい。


10ミニッツ・オールダー コレクターズ・スペシャル [DVD]

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