たぶん悪魔が


キャメラは人物の足や手や体の部分を捉えたシーンが多く、画面の全体が見えないのがロベール・ブレッソン映画(シネマトグラフ)の特徴であることは彼のフィルム一本を観ればわかる。1月末に、ロベール・ブレッソンDVD-BOXが発売され、これまで観る機会のなかった『湖のランスロ』(1974)と『たぶん悪魔が』(1977)を観ることができた。



たぶん悪魔が』は、現代社会のなかで政治・宗教・恋愛・精神分析などによっても救われない若者を描いた恐るべき傑作であった。美貌の若者シャルルはアルベルトとエドヴィージュの二人の女性から愛されている。


アルベルトの元の恋人だったミッシェルは、環境問題の専門家であり、シャルルに地球環境の汚染状況をフィルムでみせるシーンがある。この記録映画に水俣病患者のシーンがあり衝撃を受けた。アザラシを撲殺するシーンとともに印象に残る。


たぶん悪魔が』は、シャルルの自殺が新聞に掲載されているカットで始まり、冒頭で結末があらかじめ示され、推理小説でいえば倒叙法でシナリオが構成されている。なぜ、一人の若者が自殺するに至ったのかを探る物語になっている。自殺から6ヶ月前にさかのぼりシャルルを中心に四人の物語が綴られる。


シャルルとミッシェルは政治集会に参加するが、かつては政治活動に参加していたシャルルにとって、そこで演説している男の話はあまりに陳腐であり直ちに集会から引き上げる。シャルル、ミッシェル、エドヴィージュたちは教会へ行くとそこでは、神父と信者たちがプロテスタントと自由について神学論争をしている。しかしながら、論争の合間に調律中のパイプオルガンの音が入り、論争の無意味さが示される。

 
シャルルの自殺志向については、アルベルトが彼の部屋で青酸カリを発見しミッシェルに説明するシーンや、ヒッピーたちが集まっている場所で、一人が拳銃を持っていたことから、 シャルルがその拳銃を盗み、河に発砲するシーンであらかじめ示される。


シャルルが、政治や宗教や女たちとの恋愛に情熱を注げない状況が、彼を取り巻く仲間たちとのかかわりの中で、徐々に暗示されて行く。シャルルがミッシェルとバスに乗車し政治的な話を始めると、乗客たちがその論争に参加し、車内は騒然となり、一人が「たぶん悪魔だ」*1と発言すると、あわてた運転手がバスを急停車し、ドアを開けたまま車外へ出る。キャメラはドアを捉えたまま数分動かない。その間に車外の騒音、クラクションの音など画面外の音などでその場の状況を示すという鮮やかな手法を用いている。このバスシーンは、乗客の乗り降りなどを運転手の手の操作によるドアの開閉や、車内の光景などを見事に捉えた秀逸なシークエンスとなっている。


シャルルは、ヤク中のヴァランタンと深夜、寝袋を持ち込み教会で泊まろうとする。ヴァランタンが教会の賽銭箱から小銭を盗み、その嫌疑がシャルルにかけられ、警察で尋問を受ける。鬱状態になったシャルルを、精神分析医にみせようとミッシェルたち三人が考えると、シャルルが自ら分析医のもとを訪れ、分析を受けるしかし、この精神分析はいかにもステレオタイプな内容で、シャルル自身が失望してしまう。


一旦は、アルベルトとの結婚を決意したものの、シャルルはこの世界に絶望し、ヴァランタンに拳銃で撃って貰うよう依頼する。墓地にたどりついたシャルルは、死を前に「この瞬間崇高な考えが浮かぶ」と語りはじめようとするが、おかまいなしにヴァランタンは銃を背後から撃つ。更に一撃を加え約束の金をシャルルの服のポケツトから取ると、銃を死者の手に持たせ立ち去る。いかにも素っ気無い結末だが、これこそロベール・ブレッソンのシネマトグラフの手法の真髄なのであり、ミニマム映画として傑作となった。


シネマトグラフ覚書―映画監督のノート

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湖のランスロ』は中世の騎士道ものを、聖杯伝説にもとづく聖杯探索後の騎士道精神の終焉を描いた、とまとめられるとすれば、『たぶん悪魔が』は現代社会の政治的腐敗、宗教の堕落、地球規模の環境汚染など、実に21世紀的な問題に通じる現代的な大衆化時代を予見したブレッソン後期の代表作といえるだろう。


ロベール・ブレッソン作品

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*1:「たぶん悪魔だ」とは、ドスエフスキー『カラマーゾフの兄弟』第1部第3編第8章で、スメルジャコフが「人間を嗤っているのは誰だ」と問うとイワンが「悪魔ですよ、きっとね」(亀山郁夫訳)とイワンが答える。ここから、『たぶん悪魔が』のタイトルが採られている。