本を読むことは他者の世界を知ること

本の贈りもの2019


今年2019年の書物の収穫を、とりあえず列挙(順不同)してみよう。

 

1.四方田犬彦『聖者のレッスン』(河出書房新社,2019)
四方田犬彦著『聖者のレッスン 東京大学映画講義』は、宗教に関わる聖者が、映画の中でいかに描かれたを語る内容である。四方田犬彦は、研究対象範囲が広く、氏の核心的な思想はどこにあるのかが、非常に掴みにくい。しかし、本書は著者の志向性がよくわかる内容になっている。

 

聖者のレッスン: 東京大学映画講義

聖者のレッスン: 東京大学映画講義

 

 

 


2.『夢見る帝国図書館』(文藝春秋,2019)
中島京子『夢見る帝国図書館』は、図書館をテーマとする作品は数多く書かれているが、本書は、日本近代図書館の歴史にも言及される、究極の図書館小説になっている。何よりその仕掛けが素晴らしい小説。

 

3.『彼自身によるロベール・ブレッソン』(法政大学出版局, 2019)

映画作家へのインタビュー集で代表的なものは、『定本映画術 ヒッチコック/トリュフォー』(晶文社,1990)だろう。映画製作の過程、撮影方法など、あのシーンはどのように撮影されたのか、など興味深々となるような本である。
同じように『彼自身によるロベール・ブレッソン』を購入し、期待したが、内容をみてみると、ブレッソンの<シネマトグラフ>発言以上のものではないことが分かった。ロベール・ブレッソンへのインタビュー集だが、内容は作品同様きわめてストイックな『シネマトグラフの覚書~映画監督のノート』( 筑摩書房,1987)に続く、作品毎に関するブレッソンの意図が引き出される。しかし、その内容は映画に関するシネマトグラフ論そのものであり、作品解読には繋がらない。本書が、ブレッソン映画の解説やどのように撮影したのかを、『ヒッチコック/トリュフォー』と同じように期待すると裏切られる。清々しいほど、俳優排除、モデル論などに終始する。この間、『罪の天使たち』『田舎司祭の日記』『ジャンヌ・ダルク裁判』『ラルジャン』4本をDVDで再見て、ブレッソンの映画への基本的スタンスが了解できたように思う。どの映画もいわゆる映画的な面白さとは無縁の映画だ。宗教性、カソリック、聖性、無垢、棒読みに近い台詞、部分手とりわけ手や足などに画面が集中される。聖なる映画。ここまで徹底されると心地よい。

 

 

 

4.荒川洋治『霧中の読書』(みすず書房,2019)
荒川洋治の読書エッセイ最新刊『霧中の読書』を読む。このところ、必ず購入著者は少なく荒川洋治はその中の一人で、外れはない。短文が多いが、読むことの楽しさに、真剣さがにじんでいる。中でも気になったのは、以下のくだり。

「ある若手の評論家は、文芸。学術各紙に登場。石牟礼道子について書き、岡倉天心について書き、鈴木大拙原民喜についても書き、河合隼雄須賀敦子について連載し、漱石についての本、茨木についての放送テキストまで刊行。それらはいずれも本格的な長さのもの。誰についてもたくさん書けるのだ。

ある若手の評論家とは、若松英輔氏のことと推測される。確かに若松氏のHPを見ると、かず多くの著作があり、石牟礼道子岡倉天心鈴木大拙原民喜河合隼雄須賀敦子漱石茨木のり子等々、あまりにも多岐にわたる。漱石に関する『こころ異聞』は、拙ブログでも取り上げている。

短い文章が多いけれど、荒川洋治のエッセイ本は、必ず買ってしまう。


5.新國誠一詩集(思潮社,2019)

詩人・新國誠一についてこれまで全く知らなかった。前衛詩人あるいは視覚詩人と言われている。ダダ・シュルレアリスムの影響下に居る詩人と言ってもいいだろう。

「コンクリートポエトリー」とは、言葉の意味を排除し、形式・形態にこだわった詩のことである。新國氏は、国際的には評価されているようだが、現代詩文庫に「新国誠一詩集」が刊行されたのは、2019年8月であり、詩人としての国内的な位置付けがやっとなされた。

言葉を解体し、文字をデザインのように配置する手法。斬新である。

 

 

新国誠一詩集 (現代詩文庫)

新国誠一詩集 (現代詩文庫)

 

 

 

6.バーバラ・ピム著、小野寺健訳『秋の四重奏』(みすず書房,2006)
書棚の奥で見つけた本書を購入から10年以上経過して、読了した。バーバラ・ピム(1913-1980)は、<現代のオースティン>と評価されているようだ。ジェイン・オースティンを未読の者にとって、バーバラ・ピムに言及することは、不遜の誹りを免れまい。『秋の四重奏』の主役は四人、いずれも独身で同じ職場に勤めているが、定年が近い年齢である。平凡などこにでも居そうな人物ばかり。取り立ててこれといった特徴があるというわけではない。職場での昼食、あるいは夏季休暇の取り方、クリスマスの過ごし方などがまず綴られる。やがて、レティとマーシャ、女性二人が退職する。エドウィンとノーマンも近々に退職が控えている様子。


7.秋田麻早子『絵を見る技術』(朝日出版社,2019)

漠然と西洋絵画を見て、例えばベラスケスが好きだだの、ブリューゲルが好きだだの、フェルメールが好きだだのと、気楽に言うことに特別な理論付けなどなかったけれど、科学的・技術的に見る方法を提示されると、なるほどと首肯してみる。しかし、それ以上でも以下でもない。技術的な理屈など後付けであり、体系化するための理論にほかならない。最後に読者の好きな三つ選び、3点の絵画共通した要素をあげ、「私は、・・・などの特徴がある表現が好きです、惹かれます、グッときます、など。とあり、私の3つは、ベラスケス、フラ・アンジェリコ、ボッテチェルリ、ブリューゲルラ・トゥールフェルメールなどの、それぞれ1点が浮かぶが、3点というのは逆に難しい。

 

絵を見る技術 名画の構造を読み解く

絵を見る技術 名画の構造を読み解く

 

 

8.フローベール著,菅谷憲興訳『ブヴァールとペキシェ』(作品社,2019)
フローベールの未完の問題作、『ブヴァールとペキシュ』の完全なる翻訳が、菅谷憲興によってなされ、作品社から刊行された。集英社で出版された『フローベール ポケットマスターピース 07 』に収録された「ブヴァールとペキシェ(抄)」は、抄訳であり、今回作品社版ではじめて完璧な、解説・訳注が付されたわけだ。菅谷憲興は、東大教養部時代には蓮實重彦の映画講義を受けている。その様子は、『論集 蓮實重彦』(羽鳥書店,2016)で、「批評と贅沢――『「ボヴァリー夫人」論』をめぐって」の冒頭、ヒッチコック『めまい』のワンショットを描きながら、フランス文学を専攻する前の自己に言及している。

9.ツルゲーネフ著,工藤精一郎訳『父と子』(新潮文庫
ツルゲーネフの代表作と評価されている。遅ればせながら、読了した。
アルカージーが、友人でありニヒリストでもあるバザーロフとともに、父ニコライ・ペトローヴィチのもとへ帰郷するシーンから物語は始まる。『父と子』について、ナボコフは次のように最大の評価を与えている。


『父と子』はツルゲーネフの最良の長編であるのみか、十九世紀の最も輝かしい小説の一つである。ツルゲーネフは自分が意図したことを、すなわち男性の主人公、一人のロシア青年を創造するという仕事をうまくやってのけた。・・・(中略)・・・ザハロフは疑いもなく強い人間であって、―もし三十過ぎまでいきていたら、この小説の枠を超えて偉大な社会思想家、あるいは高名な医者、あるいは積極的な革命家になったかもしれない人物である。だがツルゲーネフの資質と芸術には共通した弱さがあった。つまり自分が考えだした主人公の枠内で、男性の主人公に勝利を掴ませることができないという弱さである。・・・(中略)・・・ツルゲーネフはいわば自らに課した類型から登場人物を救いだして正常な偶然性の世界に置く。(p172-173『ナボコフロシア文学講義』)


ニヒリストであるバザーロフは、ロシア十九世紀の突出した人物造型がなされている。確かに20世紀以降ではやや奇異な人物にみえる。バザーロフは、アルカージーの伯父パーヴェル・ペトローヴィチと、父の愛人フェニーチカを巡って決斗に至る。パーヴェルの負傷に終わる。アルカージーと、友人バザーロフは、美人の未亡人アンナと妹カーチャの住む家を訪ねるシーンは、『父と子』の中で唯一ロマンティックな読みどころとなっている。バザーロフは、唯一恋らしきものを感じたアンアに介抱されながらも、パンデミックに侵され死亡する。アルカージーは、妹カーチャと結ばれる。父ニコライ・ペトローヴィチは、愛人フェニーチカと再婚にこぎつける。
物語の終わりに蛇足が置かれ、その後の登場人物たちの生活が綴られる。読む者は、ほっと一息つく。しかしながら、これは早すぎたニヒリストの物語であった。
ツルゲーネフを19世紀ロシア文学の中で評価したい。

10.トルストイ著,木村浩訳『復活(上)(下)』(新潮文庫
トルストイの筆は、かつて妊娠させ、娼婦にまで堕落させたカチューシャの裁判に陪審員として参加したとこからはじまる長編。著名な小説ゆえ梗概は略す。

大著『戦争と平和』が、光文社古典新訳文庫で刊行が始まるようだ。


〇追悼和田誠

和田誠氏の訃報が報じられた。2019年10月7日逝去。享年83歳。拙ブログで、『もう一度倫敦巴里』(ナナロク社,2017)に言及したのが最後となった。和田誠といえば、第一に映画『麻雀放浪記』(1984)だろう。冒頭のマージャンシーンで、ワンショットでマージャンの一回分を上がるまで、捉えた撮影は見事だった。『お楽しみはこれからだ』シリーズで、映画の台詞を絵とともに再現した多才かつ稀有ななイラストレーターだった。山田宏一との共著『ヒッチコックに進路を取れ』(草思社,2009)も思い入れがある。年末に『ユリイカ 2020年1月 和田誠』(青土社,2020)が刊行された。もちろん追悼号。寄稿者は誰もが、和田氏への絶賛メッセージを送っている。

 

 

ユリイカ 2020年1月号 特集=和田誠 ―1936-2019―

ユリイカ 2020年1月号 特集=和田誠 ―1936-2019―

 

 〇加藤典洋の死
2019年5月21日の「朝日新聞」に掲載されていた。享年71歳。まだ若いが、平均健康寿命という考えもあろう。いずれにせよ、文芸評論家を職業とする知識人がまた一人いなくなったことは確かだ。『敗戦後論』(講談社,1997)は、論争を喚起させる本だった。とりわけ村上春樹研究を、『村上春樹イエローページ』の形で読者に読む手法を提示したことは評価される。

 

敗戦後論 (ちくま学芸文庫)

敗戦後論 (ちくま学芸文庫)

 

 

 

池内紀の死

2019年8月30日、池内紀氏逝去。ドイツ文学者で翻訳家。多数の著作がある。何よりも、白水社の『カフカ小説全集』6冊が、カフカを読むことの意義を変更させてくれた。文庫本やブロート編集に依拠した新潮社版『カフカ全集』に収録されている日記や書簡も、カフカ作品ではある。しかし、M・ブロートから解放された故に、池内氏が読み解くカフカの小説はこのように構成されると主張する全集は新鮮だった。池内紀の功績は大きい。特に「アメリカ」というタイトルが、カフカ自身は「失踪者」と命名していたことは、一例だが、ブロート編集版からの解放の意義を翻訳で届けた池内紀の名前は消えない。

 

 

失踪者 (カフカ小説全集)

失踪者 (カフカ小説全集)

  • 作者:カフカ
  • 出版社/メーカー: 白水社
  • 発売日: 2000/11
  • メディア: 単行本