はじめたばかりの浄土真宗(インターネット持仏堂2)
- 作者: 内田樹/釈徹宗
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『はじめたばかりの浄土真宗(インターネット持仏堂2)』で釈氏は、言う。
「私が生きるにはこの道しかない」という宗教的実存と、「真理はさまざまな顔を持つ」という多様性。賢者であり、愚者である、という相関関係は、「自分を超えるルールがある」という安心感と、「この世に投げ込まれた」という不安の二律背反でもあります。
内田先生が語られる宗教性には、「ルールを推論する思考の趨向性」を発揮する賢者でありながら、「ルールを知らない」愚者という両側面が確認できます。
私(釈)は、かくのごとき背反する事態の緊張関係こそが、宗教的実存であると思っています。そしてそのことを中世の念仏者・親鸞という人物から学びました。親鸞の生きざまは「世俗に立脚しながら、なお世俗を相対化して生きる」ところに特徴があります。宗教が他の体系と違う点は、世俗を相対化する領域があるところです。すなわち世俗と出世俗の拮抗です。(持仏堂2 p.8−9)
ところで、親鸞といえば、吉本隆明の『最後の親鸞 増補版』(春秋社、1984)がある。吉本氏は、親鸞について以下のように言及している。
<非僧>、<非俗>の境涯は、親鸞によって確立され、妻帯し、子を産み、この現世の不信と、造悪と、愛憐は、あたかも衆俗とおなじようにひき受け肯定されるべきものとなる。これは<非僧>である。
なにが<非俗>なのか。俗とおなじ現世の<あはれ>と<はかなさ>と<不信>とを、いわば還相の眼でもって生活するところに<非俗>の真髄があった。(p.67)
親鸞に関する吉本隆明の解釈は、説得的である。仏教とは、相対化の連続の果てに、とりわけ親鸞において、<非僧>、<非俗>の位相に達する。
- 作者: 吉本隆明
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内田氏は、宗教一般的な次元から、レヴィナスに即して、「欲求」と「欲望」の違いについて述べ、「善」を定義する。
欠如が満たされて得るものが「欲求」、欠如が充足されるにつれてますます欠落感が昂進するようなものが「欲望」と呼ばれます。(持仏堂2 p.26)
善とは、「自分が何をしたらよいのかわからない」のだが、「自分が何をしたらよいのかわからない」という仕方で世界に投じられてあることを「絶対的な遅れ」として引き受け、おのれに「絶対的に先んじているもの」(言い換えれば「存在するとは別の仕方で」私たちにかかわってくるもの)を欲望するという事況そのものを指しているのです。(持仏堂2 p.27)
倫理の立場については、内田氏は、次のように述べる。
「狂信者」の非倫理性と「ニヒリスト」の非倫理性の「中間」に、人間の倫理性の境位はあり、そこにしか存在しえない、と私は考えています。つまり「私は神の意志を知らないけれど、なんとなく知っている」。人間は何をなすべきで、何をなしてはいけないか、根拠は「ないようだけど、ありそう」という決然たるあいまいさこそが倫理の居住可能エリアではないかと思うのです。(持仏堂2 p.113)
内田氏の言説は、構造主義的であり、宗教を相対化する視点にある。内田樹は、宗教をゲームにたとえて以下のように解説する。
喩えて言えば、「どいうルールで行われているのかわからないゲームに、気がついたらもうプレイヤーとして参加していた」というのが人間の立ち位置だと思います。
このときに、「私には分からないけれどもこのゲームを始めたものがあり、そうである以上、このゲームにはルールがあるはずだ」というふうに推論する人間の思考の趨向性を私は「宗教性」と呼びたいと思います。(持仏堂2 p.137)
そして、自らを「宗教的には野生の人」と自己規定する。内田樹は、宗教を構造的に、「ブリコラージュ」的に捉えている。
冒頭にも記したが、二冊を通読して、今回は「親鸞」という大人物がいて比較的、分かりやすい浄土真宗のお坊さんである釈徹宗と対話しているが、宗教そのものは「ブリコラージュ」の対象であることを告白している。二人の話や、吉本隆明の『最後の親鸞』を読むかぎり、宗教のなかでも、仏教は構造主義的思考にきわめて近いと感じた。
内田樹氏の思惟方法は、レヴィナス=ラカンに依拠している。拙稿ブログの2004年12月19日で言及した『他者と死者』にも連関した内容である。レヴィナスへの最大のオマージュであり「老師の叡智を称える」と自身も「肩入れ」しているのが『レヴィナスと愛と現象学』(せりか書房、2001)であり、持仏堂二冊は、浄土真宗を語りながら、実は、「レヴィナスの弟子」たらんとしているかのように聴こえるのは私だけだろうか。
- 作者: 内田樹
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