売文生活


日垣隆『売文生活』(ちくま新書)が面白い。


売文生活 (ちくま新書)

売文生活 (ちくま新書)


日垣氏の執筆の意図は、「ビジネスモデルとしての売文生活」(p.229)を書くことにあり、文学や文士の変遷をたどることにはないと明言している。


このタイトルを見たとき、とっさに思いついたのは、小谷野敦『評論家入門』(平凡社新書)である。しかし、読み始めるや、フリーライターとしての自分のスタイルを紹介しながら、原稿料について触れて行く。でも、内容的に面白いのは皮肉なことに、文学者や文士と原稿料の変遷を明治以後、漱石から筒井康隆島田雅彦までたどる過程を記述する箇所であった。

自由と野心と生活の問題は、最大のテーマであり続けました。択一ではなく、敢えて漱石は三兎を追うのです。
明治の文士たちは、この三つの問題で悩み抜き、多くは挫折してゆきました。(p.088)


漱石が大学教師を辞めて、朝日新聞社の社員になるために、池辺三山を通して条件の交渉をする。当時としては、破格の月200円の収入に加えて、ボーナスの支給を含め、さらには、新聞へ掲載する作品について、こと細かく取り決めている。


漱石が文筆業で最初のフリーエージェント宣言をしただけでなく、その交渉が画期的であった」と、日垣氏は漱石をひとつの標準として評価している。一方の鴎外は、「彼の豊かな生活を支えていたのは原稿料や印税ではなく、父親の財産と、官吏として日本一の俸給」であったという。


無頼派作家の檀一雄のエピソードは、その破天荒な生活ぶりと、「文士の黄金時代」を生きた人であったことを、著者は揶揄的に記しているが、逆立した羨望の思いが伝わる。サラリーマンの100倍の収入を得て、家族と愛人を養い、加えて家を何軒か建てているのだ。「作家」とは文字どおり「家を作る」ことの手本のような生き方であるが、檀一雄はもちろん例外である。


個人全集が売れない時代を、流行作家である筒井康隆を例として、とりあげているくだりや、数多くの著書を出版し、猫ビルを持つ立花隆の近況に触れているところなど興味深い。作家やライターが、筆一本で生活することの困難さをリアルに捉えている。しかし、それがフリーライターとしての標準ではなく、金銭的感覚=経営的感覚の欠落を立花隆から読む。経営的感覚をしっかり持てば、十分成立することの反証=反面教師として、立花隆をとりあげているのだ。このあたりが、日垣隆の自信あふれる生活と執筆のバランスを強調するところとなっている。


島田雅彦金井美恵子の「原稿料収入と印税だけで生活ができる」という認識の違いを、この二人の作家同士の関係に重ねて読むと、実に愉快だ。「原稿料収入と印税だけで生活ができる」のは、純文学では現在10人に満たないという島田雅彦と、その10人に該当すると自ら言う金井美恵子の感覚的差異。この二人をネタに、

端的に言えば、大勢の読者のために書かれる娯楽小説とは異なって、純文学は自分と「わかってほしい読者だけ」のために書いているでしょうから、勝手に回路を閉ざしておいて貧乏だの食えないだのと自虐的に自慢するのは、やめていただきたい。(p.218


このくだりは日垣氏の本音が出ているところである。しかし、読者としての立場から言えば、消耗品的にその場かぎりの面白さに満足するかといえば、長く歴史に残り、作品から「感動」やカタルシスが得られるものは、島田雅彦金井美恵子日垣隆のどちらなのかと問いたくもなる。残された作品が全てではないのか。漱石や鴎外が、後世、このように芸術性から乖離した指標で評価されるとは思いもしなかっただろう。


「ビジネスモデルとしての売文生活」を目指し、成功していると自慢する日垣隆のようなフリーライター希望者には、うってつけのガイドブックだろう。何より、小谷野敦のように、奇妙に屈折していないところが良い。