またの日の知華


原一男またの日の知華』(2004)は、主人公の知華を、四人の女性が演じるという趣向で構成されていて、その背後に60年代から70年代、高度成長時代と反政府運動がニュースフィルムとして流れる。


エロスとタナトスが表裏一体として捉えられていることは、第一章の知華1:吉本多香美が結婚した夫・田中実に、赤ん坊に母乳を与えていて感じたことを「セックスをするのも、子どもを育てるのも、生きることに繋がってるはずなのに、どうしてこんなに死を連想してしまうのだろう」ということばに象徴される。


第二章では、知華2:渡辺真紀子が不倫の相手田辺誠一と二人が百八灯祭で、神社への長い階段の両側にロウソクを奉納して行くシーンがある。その後、知華が平均台で落下するシーンの8mmが田辺誠一によって蔵の二階で上映され、二人が愛し合うシーンへ繋がる。死者への追悼のロウソクが、二人の愛を結びつけている。


第三章は、教師を辞職した知華3:金久美子が、教え子の小谷嘉一が手筒花火を打ち上げるシーンに一瞬の快楽が昇華され、二人は静かに結ばれる。金久美子の沖縄の離島への誘いは、相手の姉によって阻まれる。バス亭で一人佇む金久美子の憂いを帯びた表情が素敵だ。


第四章。場末のバーに勤める知華4:桃井かおりのもとへ中年の流れ者夏八木薫が飲みに訪れる。夏八木薫の故郷・飛島での道行は美しく、エロスとタナトスの合体がなされる。人気のない島の風景や海辺の石ころが積まれている賽の河原。水に浮かぶ「桃井かおり」は幸福そうに見える。


第一章から第四章まで、一貫して描かれるエロスとタナトス。これは、原一男の『極私的エロス・恋歌1974』において、二人の女性との私的関係を露出したフィルムであった。それを、フィクションとして、エロスとタナトスの結合として描く意義とはどこにあるのだろうか。


極私的エロス・恋歌1974 [DVD]

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一人の女性が、相手によって違って見えるという発想がこの映画の核心にある。かつてルイス・ブニュエルが『欲望のあいまいな対象』(1977)で、二人の女優が一人の女を演じる試みがあった。女性のもつ聖性と娼婦の二面性を二人に演じさせたものであった。しかし、一人を四人の女性が演じ分けるというフィルムは『またの日の知華』が嚆矢である。


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エピローグでは、知華の息子・吉岡秀隆が無言で飛島を訪ねる。このシーンは映画全体を相対化する秀逸な視点である。昭和の高度成長社会に照応するかのような個人レベルの墜落感覚を対比させていることの意味を、このフィルムには問うまい。ドキュメンタリーの名手・原一男は、あくまで非政治的人間なのだから、エロスとタナトスの究極を描いた『またの日の知華』、その試みは成功したといっていいだろう。


ドキュメンタリーの傑作を撮り続けた原一男の最初のドラマも、基本的なキャメラの位置は同じだった。対象への距離のとり方。クロースアップで瞬間の表情を捉える手法、その点において、原一男の新たな試み自体は評価したい。ただし、原一男の代表作は、『ゆきゆきて、新軍』と『全身小説家』であることに変わりはない。


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