「負けた」教の信者たち



カニアンにして哲学者ジジェク派でもある、精神分析医・斎藤環による『中央公論』連載の「時評」を一冊の新書にまとめた『「負けた」教の信者たち』(中公新書ラクレ)が刊行された。本日、購入してきたので、早速、一読する。


斎藤氏が、ほぼ同じ時期に『文學界』に連載していた『文学の徴候』(文藝春秋)については、2004年12月26日に、私のブログでやや批判的に触れた。しかし今回の新書は、精神分析医本来の立場から、メディアやネットワーク、「ひきこもり」「児童虐待」などについて、時評的な話題=問題をとりあげながら、自説が展開され、社会問題への示唆的な提言を行っている。


斎藤氏がいう「勝ち組」とは、「(情報格差によって)勝ったと思いこんだ人々」(p14)のことであり、

学歴においても社会的地位においても申し分のない成功をおさめながら、「こんなはずじゃなかった」「ここは自分の居場所ではない」という違和感を捨てきれない「若者」は、今や珍しい存在ではない。
「負け犬」ブームがなによりの証拠だ。・・・(中略)・・・
一人の勝者もいない戦場で、ひたすら敗走を続ける若者たち。私はそんなイメージを抱いてしまう・・・(中略)・・・
「『負けた』教の信者」とは、「自傷的自己愛」にしかすがることのできない若者たちのことを指している。(p.21)


とまずは、「勝ち組」と「『負けた』教の信者」の定義を引用しておく。斎藤氏がラカニアンであることは、「他者」をめぐる以下の言説によくあらわれている。

理解が深まるほど謎も深まる。他者とはそのように汲み尽くせない存在であり、その意味では自分自身にも他者はいる。そうした他者に対して寛容性を維持することが、今ほど難しい時代はないのかもしれない。いたるところで過剰な情報が「謎」を隠蔽し、他者を透明化してしまうからだ。
・・・(中略)・・・
専門家とは何にでも回答できる人のことではなく、「何がわからないか」を正確に知っている存在のことだから。(p.86)


専門家についての斎藤氏の意見は、まさしくそのとおりで、TVのあのコメンテータとは何者なのだ。メディアが、「過剰な情報が『謎』を隠蔽」している行為に加担しているに過ぎない存在ではないのか。斎藤氏は、「ひきこもり」や「児童虐待」に触れながら、重要な予測をたてている。

問題は徐々に「ひきこもり」から「児童虐待」へシフトするであろうと予測している。近代化の過程で、本来は家庭の持つべき機能が社会制度の側に分担されていく過程を「デプライバタイゼーション」と呼ぶ。育児、教育、家事など、あらゆる面でそうした傾向は進みつつあるが、児童虐待の防止もまた、この傾向でなされることになる。それは家庭機能のいっそうの衰弱を促す可能性をはらむが、問題の緊急性が躊躇する余地を与えない。(p.145)


近代化過程で社会は成熟したが、そのことが逆に個人の成熟を阻害していると斎藤氏はいう。斎藤氏の持論は「社会の成熟度と個人の成熟度は反比例する」であり、全共闘世代・新人類世代・団塊ジュニア世代をジジェクの理論を援用しながら、前二者を、モダニスト、ポストモダニストとして「転向」のあった世代、団塊ジュニア世代には「転向」はなく、学習や行動において「抵抗」がなく、器用でその気になれば行動できるが、「何もしない」世代だという。そして、団塊ジュニア世代=若者について次のように語る。

「本当の自分」にひたすら固執し続けるか、まったく固執しないか。
・・・(中略)・・・
「本当の自分」などありうるのかという懐疑のもとでそれでも自己に執着し続けること。必要なのは、こうしたシニシズムを通じて維持される無根拠な自己ではないか。(p.222)

若者を動機づけるには、若者が自らの動機を発見できるような環境や条件を調整するのみに留め、直接動機づけにはタッチしないことが最も望ましいように思われる。(p.230)


かなり、論点を飛ばしながら引用しているので、要領を得ない紹介となったが、斎藤氏の提起している問題は、今後の日本社会にかかわる重要な論点が含まれているので、本書に直接あたっていただきたい。なお、この問題は、若者の「自分探し」(香山リカ)だけの問題ではなく、「こども」の問題であり、ひいては「大人」の問題でもあるからだ。


ラカンについては、私自身も現在勉強中であり、斎藤環がWeb上で連載している「生き延びるためのラカン」(晶文社ホームページ内)が参考になる。


文学の徴候

文学の徴候



■補記(2005年4月16日)


フロイトに還れ、フロイトは患者と一対一で向き合わねばならないことをわれわれに教えた」(ラカンの言葉:福島泰平『ラカン』p.3より孫引き)。つまり「ひきこもり」や「ニート」は、集団ではなくあくまで個人の問題であり、一人ひとりとの向き合いにしか解決がない。「勝ち組」、「負けた」教信者などの問題の解決は、フロイトラカン的な個別対応にしかないと思う。社会問題として論じるならば、ラカンバタイユ的思惟に依拠するのが、今の私に考えられる方途の一つである。根底的な解決策などない。