風光る丘


風光る丘

風光る丘


小沼丹風光る丘』(未知谷)が、『小沼丹全集』の補遺的なかたちで同じ出版社から刊行されている。小沼丹の唯一の長編小説で、1961年から62年まで地方紙に連載され、1968年に「集団形星」という出版社から発行され、その後、小沢書店版の『小沼丹作品集』にも、また未知谷版『小沼丹全集』にも収録されることなく、40年近く、多くの読者の目に触れることもなく放置されていた。この幻の長編小説が、このたび全集を刊行した未知谷から復刊された。


今、読んでいる小説は、堀江敏幸『河岸忘日抄』(新潮社)と、川上弘美『古道具 中野商店』(新潮社)などであり、このニ冊について、たまたまなのかも知れないが、読了に至っていないうちに、小沼丹風光る丘』を読み始めると、一気にのめり込んでしまった。堀江氏や川上さんの小説は、新しさがあり、小沼氏との決定的な差異は、会話に典型的にあらわれている。小説のなかの会話文はどうしてもその時代を反映してしまう口調というものがある。川上弘美『古道具 中野商店』の「だからさあ、・・・」で始まる中野商店の主人や、「・・・す」という語尾で終わるタケオくんの口癖などが気になると、どうも前へ進めない。なぜなのだろうか、などと考えながら、小沼丹の長編を読み始めたのだった。


不思議なことに、昭和30年代の学生群像を描いた『風光る丘』の方が溶け込みやすく、ユーモア溢れる文体や、余裕のある筆致に舌を巻きながら、実に面白く読むことができた。通常は、その逆なのだが、小沼丹の場合、どちらかといえば通俗ユーモア作品に分類されるであろう『風光る丘』が予想外の収穫となったのだから、文学作品のもつ時間性を考えてしまう。


それはさておき、『風光る丘』は大学生4名がガラ・クラブなるサークルを結成し、一台のポンコツ自動車を交替で乗る仲間であり、彼らが夏休みに信州方面へ自動車旅行に出かけるロードノベルなのだが、19世紀的な小説の約束事に忠実で、男子学生四人の性格や体型なども、典型的に描きわけ、彼らに関係する姉妹、家族、友人、先輩などの一人ひとりが、型にはまっているにもかかわらず、面白いのだ。


まず、芒洋とした性格の広瀬小ニ郎、大食漢の杉野正人、哲学者タイプの石橋渉、いつも嘘をつく洞口謙介。この四人の学生がガラ・クラブのメンバー。杉野の祖母・山野百合子が、知人の旅館の娘の結婚相手を強引に探すところから、物語は展開して行く。広瀬にかかわる立花姉妹、鮒子、鮎子との微妙な関係。広瀬小ニ郎とその兄と謎の美女・吉野玲子との関係、破格の坊さんベラフォンテ和尚など。いわばキャラクターに併せた自然な会話になっている。しかも、物語の進捗ぶりが一種のミステリー仕立ての味わいがあり、最後まで楽しくはらはらしながら読ませる内容であった。


姉・鮒子のせりふ

「淋しがり屋にもいろいろあるわ。淋しさをじっと我慢して表に出さないひともあるし、誰かに頼りたがるひともあるし、淋しさを紛らわせようとして逆の行動をとるひともあるわ」(p.345)

妹・鮎子のせりふ

「でも、誰かが幸福になると、その分だけ誰かが不幸になるって云うことないかしら?」(p.357)


この二人の姉妹のせりふに象徴されるように、全体としては表層的なユーモア小説のかたちを借りて、しかもステレオタイプの人物造型であるにもかかわらず、作品の背後には、人生への深い洞察がある。


小沼丹がどちらかといえば、マイナー作家だから、この種の本の再刊にはそれなりの価格設定(4,200円+税)が高いかどうかは、読者の判断によるだろう。決して高いとは思えない内容であったことは強調してもいい。読みたい本が復刊、あるいは再刊されるためには、商品として成立するための価格設定にならざるを得ない。それが、資本主義社会の商品としての文学作品なのだから。


それにしても、文学作品の評価は、同時代性よりも、一定の時間が経過してはじめて、その真価が問われる。売れ筋の本に眼が向いてしまいがちだが、これは自戒すべきことであり、時には、よむべき過去の作家を集中的に読むという平行的な読書が必要であることを、『風光る丘』に教えられた。「ことばの賞味期限」(高橋源一郎)についても考えさせられた。丸山眞男の『古典からどう学ぶか』を再確認すること。




河岸忘日抄

河岸忘日抄

古道具 中野商店

古道具 中野商店