マグダラのマリア


マグダラのマリア―エロスとアガペーの聖女 (中公新書)

マグダラのマリア―エロスとアガペーの聖女 (中公新書)


岡田温司マグダラのマリア―エロスとアガペーの聖女』(中公新書)は、西洋絵画・美術史のなかの「マグダラのマリア」に焦点をあてた画期的な書物である。


福音書のなかに登場する「マグダラのマリア」に関する記述はきわめて少ない。にもかかわらず、西洋美術史のなかで「マグダラのマリア」をテーマとする絵画があまりにも多いことに驚いた。

マグダラのマリアと呼ばれる女性は、もともと福音書において、おもにキリストの磔刑、埋葬、復活にかかわる各場面に登場しているが、罪や悔い改めといったテーマに直接関連しているわけではない・・・(p.13)


その「マグダラのマリア」がいかにして、悔い改めた女性としてのマグダラ像に形成されて行ったのか、図版を数多く示しながら、解説したのが本書である。「マグダラのマリア」に対して漫然と、聖と俗、娼婦しにして聖女というイメージを持っていたのだが、実際には、キリスト教布教の意図と、画家たちとの相克のなかで、できあがっていったのだった。


初期のフレスコ画時代を経過して、バロック以降の「マグダラのマリア」は、官能的あるいは肉感的な女性として描かれる。

この聖女に内在している両義性ー聖と俗、敬虔と官能、精神性と肉体性、神秘的禁欲と感覚の悦びーが、この時代ほど多彩なかたちで表面化したこと
・・・(中略)・・・
バロックという文化はしばしば、矛盾する原理や対立する感情、両義性や多義性への嗜好によって特徴づけられるが、それをもっともよく具現化しているのが、私たちの聖女である。
(p146−147)


またさらに、

変身、偽装、気取りというバロック的な修辞学において、マグダラのマリアはまさしく主役の座を占めているのである。その意味では、バロックマグダラのマリアはまた、一八世紀に流行する「ファム・ファタール」のイメージを先駆けているとも言えるだろう。(p.178)


官能的あるいは肉感的な女性の絵に、聖書と髑髏と聖油壺が沿えられることで、「マグダラのマリア」になるというわけだ。「マグダラのマリア」は、「ファム・ファタール」として文学にも影響を与える。


ところで、一神教としてのキリスト教が、「マグダラのマリア」の絵画を巡り、これほど多彩で豊富な歴史的遺産があることを思えば、唐突だが、「キリスト教と資本主義」という視点からみるとどうなるのだろうか。キリスト教の教義としての父=子=精霊の三位一体を、商品=貨幣=剰余価値の三位一体として読み替えたのがマルクスである、という『緑の資本論』における中沢新一説はきわめて刺激的である。「マグダラのマリア」のキリスト教的両義性を、逆ベクトルとして視野に入れ、新たな「形而上学革命」のために、不可能性の問題として『緑の資本論』『対称性人類学』から示唆が得られるかも知れない。それに、交換=贈与=純粋贈与にかかわるバタイユの「普遍経済学」(『呪われた部分』『エロチシズム』『至高性』)が援用されることが望まれる。


緑の資本論

緑の資本論

対称性人類学 カイエ・ソバージュ 5 (講談社選書メチエ)

対称性人類学 カイエ・ソバージュ 5 (講談社選書メチエ)

エロティシズム (ちくま学芸文庫)

エロティシズム (ちくま学芸文庫)


岡田温司編『カラヴァッジョ鑑』(人文書院、2001)においてロベルト・ロンギに言及し、さらに、そのロンギを尊敬していたパゾリーニの映画『テオレマ』『奇跡の丘』に連なる話があるが、これはまた「パゾリーニ論」として改めて触れたい。


カラヴァッジョ鑑

カラヴァッジョ鑑