ボヴァリー夫人


ボヴァリー夫人 [DVD]

ボヴァリー夫人 [DVD]


ジャン・ルノワールボヴァリー夫人』(1933)をDVDにて観る。ルノワールを『大いなる幻影』(1937)でのみ語られた時代は遠く、『ゲームの規則』(1939)だの『黄金の馬車』(1952)だの、あるいは、『素晴らしき放浪者』(1932)だの、いややはり『ピクニック』(1936)が傑作であるなど、代表作にはあまり多くのフィルムがとりざたされ、190分の完成版が消滅してしまい、現存するのが99分版しかない『ボヴァリー夫人』は、いわばオリジナルのままではないという理由で、完成したルノワール作品として語られてこなかった。


素晴らしき放浪者 [DVD]

素晴らしき放浪者 [DVD]


蓮實重彦によれば、「具体的な記号としてのルノワール、それはあくまで催淫的な横笛だ。」(ルノワール、または横笛の誘惑」)また、「おそらくジャン・ルノワールは映画史で最も卑猥な映画作家であるに違いない。」(ジャン・ルノワール、または触覚都市の痕跡」)とも言う。なるほど、『ピクニック』や『草の上の昼食』(1959)を観れば、蓮實的言説に納得できるだろう。『カイエ誌』は、50年以上も前にルノワールを「世界最大の映画作家」と絶賛している。


ピクニック [DVD]

ピクニック [DVD]


横笛を香水に置き換えれば、トム・ティクヴァ『パフューム』のラストシーンは、ルノワール的「卑猥=官能性」といえなくもない。


黄金の馬車 デラックス版 [DVD]

黄金の馬車 デラックス版 [DVD]


ルノワールの映画をすべて観ているわけではない。35本のうち16本を観ているに過ぎない。いま、手元に『ジャン・ルノワール自伝』(みすず書房、1977)、アンドレ・バザン著/フランソワ・トリュフォー編『ジャン・ルノワール』(フィルム・アート社、1980)、それに『季刊カイエ・デュ・シネマ・ジャポン13/生誕100年ルノワールによる20世紀』(フィルムアート社、1994)がある。『自伝』でも、『ボヴァリー夫人』についてあまり詳しく触れていない、というよりその内容について何も語っていない。190分版を観たブレヒトが絶賛したことは知られているが、オリジナル版が存在しない以上、現存するフィルムから読むしかないだろう。


ゲームの規則 [DVD] FRT-265

ゲームの規則 [DVD] FRT-265


冒頭のシーンで田舎の風景をキャメラが移動しながら撮る光景から引き込まれる。短縮版だから、編集やつなぎに不自然さがあるとしても、ルノワールの演出の巧さが伝わってくる。屋内シーンでは舞踏会の壮大なシーンがある。しかし、ルノワール的美しさとは、屋外の光景が自然の光線のなかで捉えられるときで、エンマがロドルフと乗馬で森の中を駆けるシーンや、農事共進大会の広場で牛の品表会が催されるシークエンスなどに、屋外シーンのリアリティが感じられる。


映像の詩学 (ちくま学芸文庫)

映像の詩学 (ちくま学芸文庫)


シャルルがエンマに馬車を購入したと告げるシーンは、ワンショットで、室内にいた二人が窓越しに、戸外の馬車に乗り動きだすまでを収めている。ここは、『ピクニック』で蓮實重彦が指摘する「この一瞬の美しさは、ほとんど不意打ちに近い戸外と室内との通底性と深くかかわっている」ことは「窓を介した室内と戸外の通底」が『素晴らしき放浪者』にもみられるルノワール符牒であることから理解できるシーンであった。


表象の奈落―フィクションと思考の動体視力

表象の奈落―フィクションと思考の動体視力


蓮實重彦『映像の詩学』(筑摩書房、1979)と、『表象の奈落』(青土社、2006)。前者には、「ルノワール論」、後者は「ボヴァリー夫人論」が収められている。そこでも、映画『ボヴァリー夫人』は語られていない。


ラ・パロマ [DVD]

ラ・パロマ [DVD]


エンマが砒素を飲みベッドに横たわりながら死に行くシーンは、ダニエル・シュミット『今宵かぎりは・・・』(1972)の中で、貴族の館内の舞台劇として再現されている。ヴァランティーヌ・テシエ演じるエンマは、シュミット作品のイングリット・カーフェンに及ばないとしても、19世紀フランスの田園風俗の中で、自己を追い詰めるエンマ像は、ルノワールが最初に映像化したことで特筆に値するといえるだろう。



ルノワールボヴァリー夫人』を観てしまったがための、とりとめもない散漫な雑文になってしまった。