奇跡ほか
デンマーク映画の巨匠にして、神聖なる映画作家カール・テオドール・ドライヤーの代表作をスクリーンで観たメモから、覚書として記録しておきたい。ドライヤーの映画を、スクリーンで見ることができることの喜びはなにものにも変えがたい。
カール・ドライヤーは、「私はキリストの生涯を映画にしたい。王女メディアの映画もつくりたい」と宣言し、死の直前まで「キリスト伝」の映画化を目論んでいた。しかしながら、『ガートルード』(1964)が遺作となってしまったのは周知のとおりであり、「キリストの伝記」(『奇跡の丘』)と『王女メディア』を撮ったのは、皮肉にも、イタリアの無神論者パゾリーニであった。パゾリーニの『奇跡の丘』は、映画史のなかでもっとも美しいキリスト伝となったし、『王女メディア』の圧倒的迫力は、パゾリーニ的情熱の結晶となった。その意味では、ドライヤーの遺志は、パゾリーニが引き継いだことになる。
以下は、カール・ドライヤーの代表作である5本についての記録(覚書)となる。
【裁かるるジャンヌ】
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クロース・アップの印象が強い『裁かるるジャンヌ』は、ジャンヌの無垢な表情のみ記憶に残っている。宗教裁判を行う判事たちのクロース・アップが対照的に、彼らの表情の細部を、顔のしわや歪んだ眼、鼻、口などの動きがサイレントであるが故に、ひそひそ話の醜さとして強調されている。ドライヤーは、ジャンヌの裁判記録を読み、忠実に再現したと言われている。判事や司教たちは、シャルル七世からのにせの手紙を捏造し、ジャンヌに見せ、異教放棄の署名をさせる。しかし、髪を切られたジャンヌは、署名を撤回し、自ら火刑台に向かう。ジャンヌを捉えるキャメラは極端な仰角となり、また、生きたまま火刑にされるジャンヌを目前にした群集は、暴動を起こす。群集を捉えるキャメラは垂直の俯瞰となっている。裁判から死に至る時間の経過を緊迫したショットで構成したドライヤーと撮影ルドルフ・マテの技術は、サイレント映画の最良の部分を表出した。
【吸血鬼】
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トーキー最初の『吸血鬼』は、再びドライヤーとルドルフ・マテのコンビで、モノクロ画面の境界を曖昧化した灰色のトーンで撮られている。吸血鬼伝説を映画化した最初のフィルムであり、怪奇映画というよりも、肉体と精神の分離など、精神分析的解釈がなされ、映像として、「影」を有効に活用している。端正なスタイルで構成するドライヤー作品では、白光と影をたくみに交錯し、昼とか夜とかにこだわらず、主人公・青年の白昼夢として観ることも可能だ。
【怒りの日】
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中世の魔女裁判を扱った『怒りの日』は、『裁かるるジャンヌ』に連なる作品だが、老年の牧師と結婚した女性の、息子への愛が破滅を招くのは、常に女性の視点から世界を見るドライヤーならではの主題でもある。主題的には、遺作『ガートルード』に引き継がれ、より鮮明になるだろう。『怒りの日』は、中世の牧師の生活の描写や、宗教裁判の実態を実にリアルに、忠実に再現している。恐るべきテーマに挑戦したフィルム。絵画のようなシーンやショットは美しく、主題の残酷さと矛盾するようだが、それもドライヤーの計算のうちに入っている。
【奇跡】
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ドライヤーといえば、何よりも『奇跡』(原題=言葉)であろう。キリストの生涯を映画化することを願っていたドライヤーにとって、自分をキリストであると宣言する次男が復活したイエスであり、長男の嫁を蘇生させる奇跡的行為は、いわばキリストへのオマージュである。もっとも美しい映画がここにある。富農であるボーオン一家の宗教と対立する、三男の恋人の父は仕立て屋で内的使命派。対立する両家は、ボーオン家の長男の嫁の死=再生によって和解へと導かれる。『奇跡』では、映画の中のすべての問題が、次男が起こす<奇跡>によって解決するきわめて幸福なる映画になつている。
【ガートルード】
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遺作となった『ガートルード』には、ドライヤーの女性観が色濃く反映している。ガートルードは著名な弁護士カニングの妻。カニングは次期の大臣に任命されることが決まっている。外見からは、成功した夫を持つ幸せな妻という幸福な家庭を想起する。けれども、夫に愛されていないと思うガートルードは、若い作曲家エアランに恋をしている。エアランとともに、人生をやり直したいと思っている。そんな二人は、官能的な一夜を過ごす。時を同じくして、かつての恋人で詩人のリーズマンが帰国していた。また、パリ時代の友人アクセルとの再会も果たす。ガートルードは、エアランの本心が自分に向いていないことを知り、深く傷つく。そして、恋人であった詩人エアランの誘いを断り、夫と離婚し、アクセルとパリへ赴く。やがて数十年が過ぎ、老婦人となったガートルードのもとへ、アクセルが訪問する。
ここで、ガートルードが、自分の生涯を後悔していないということが告白される。いわば、女性の生き方の一例を提示しているわけだが、現在では、ガートルードの生きた方に共感することはあっても、否定することはないだろう。女性の自立する生き方を先取りしていたのだ。ところで、『ガートルード』の中での会話は、常に視線が交錯しない形で撮られている。交わらない視線こそ、男女の本質的な関係を示唆しているといえないだろうか。
ドライヤーとは、「光と影」の作家であり、魔女裁判を通じて女性の自立を描いた作家であり、キリストの復活を描いた作家であり、生きている男女に「永遠の愛などありえない」ことを示した作家であるが、同時に、イエス・キリストへ深く帰依した映画作家でもあった。ドライヤーの代表作5本を観ることは、神の恩寵=至福を感じることであった。