拝金主義批判


朝日新聞」1月4日(水)の「新・欲望論」第一回掲載の茂木健一郎『多様性こそが合理的』と、共同通信系の地方紙、5日(木)掲載の辺見庸「人の座標はどう変わったか・1」『世界の総量の涙は増えている』には、共鳴する内容があり、続いてほぼ同様の趣旨の記事に共感したので、取り上げておきたい。

まず、茂木氏の記事は次のような内容だった。

人間の欲望がむき出しになって社会の流れをつくり出す。そのような傾向が顕著になったと感じられる昨年一年だった。ITベンチャー企業が資金力に飽かせて旧来のメディアを買収しようとする。金で買えないものは何もないと豪語する起業家を前にして、倫理を説く者は無力感を募らせる。
・・・(中略)・・・
もともと、文化を高度に発達させた人間の欲望の形は単純に割り切れるものではない。社会の誰もが金儲けに走るような、「欲望のモノカルチャー」ほど文化を貧困にすることはない。金では買えない快楽こそが真実や美へと人類を導くインスピレーションを与えてきたのである。
・・・(中略)・・・
アカデミズムの危機に戻ろう。社会が拝金主義で塗り込められる気配を敏感に感じて、せめてキャンパスにいる間くらいは学究に浸りたいと願う学生はむしろ増えている。かつて本居宣長の下に集った商人たちは、「散々道楽もしたが、学問ほどの快楽はない」と感嘆したという。(「朝日新聞」2006年1月4日より)


拝金主義批判であり、現代社会の病の深さがうかがわれる。


脳の中の人生 (中公新書ラクレ)

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一方、辺見庸は、2004年から病と闘いながら、次のように書いていることは、熟考を要請している。

久方ぶりに復帰した社会は、清貧も精励も美徳ではなくなっただけでなく、どうかすると嘲られかねない。消費と投資がもてはやされ、射幸心を持つも煽るも罪悪視されなくなった。以前からそうだったと言えばそうだが、人が生きていく価値の座標が目下、劇的に変わりつつあるのは間違いない。
・・・(中略)・・・
犯意も廉恥心もありはしない。<何かがおかしい>と訝る心の羅針盤が狂ってきてはいないか。戦争、地震津波、ハリケーンのたびに被災者を慮るのではなく、株価とにらめっこする人々が増えてきた。その中には、高校生や大学生の「投資家」もいるという。インターネットで株価の動向を追うのに長けていても、彼方の悲鳴に心を痛める想像力に欠ける。
おそらく人倫の基本がかつてなく揺らいでいる。旧式の価値体系は資本に食い破られたけれど、新しい価値感が人の魂を安息に導いているとは到底言いがたい。正気だった世界に透明な狂気が正気を僭称するようになった。この世には生きる真の価値があるのか、と訝る内心の声は老若を問わずこれからも減りはしないだろう。「世界の総量は不変だ」。ベケツトの戯曲「ゴドーを待ちながら」に出てくる台詞だ。昔はうなずいて読んだものだ。今、そうだろうかと、首を傾げる。(「共同通信」系ブロック紙、2006年1月5日)


新聞の見出しにあるように「清貧や精励嘲る社会」、つまり「拝金主義批判」である。偶然というか、ほぼ同時に始まった連載の第一回は、このように現代社会が抱える病の深さを穿つ二編であったことは、自己のありようも含めて、省察を迫る内容であった。


いま、抗暴のときに (講談社文庫)

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茂木氏の結びのことば。

欲望は地上の充足に向かうのみならず、精神の高みに至る原動力でもあることを、現代人は思い起こしてみてはどうか。


辺見氏の結びのことば。

世界の涙の総量は増え続けているのかも知れない。


クオリア降臨

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