私は美人


正月から無粋な話が続いたので、酒井順子さんの美人談義をとりあげよう。


私は美人

私は美人


酒井順子『私は美人』(朝日新聞社、2005.11)は、美人の定義から差異化・差別化を、およそ美人といえるジャンルの中で、可能なかぎり列挙してみせる。『負け犬の遠吠え』で流行語にまでなった「負け犬」談義の延長上で、『その人、独身?』を上梓したけれど、『負け犬・・・』を凌駕することはなかった。


その人、独身?

その人、独身?


しかしながら、『私は美人』の徹底したこだわりぶりには、そこまでこだわる必然性があるのだろうかとさえ、思ってしまう。○○美人でなければ気が済まないのが、女性一般なのだろか。アンチエイジング即ち、年より若く見えることを美学とするのは、本来、自然に反している。


「所属美人」の章では、ステュワーデスや女子アナ、制服というコスチュームや局所属の女子アナが美人に見えるというのは、美人の定義に該当するというわけだろう。「田舎じゃ美人」や「よく見りゃ美人」になると、女性の誰もが「美人」であり得ることになる。


「老人美人」の章では、年齢を超えた美が想定される。

おそらく私が老人になる頃には、老人の世界において、今よりもっと美醜の差が広がっているものと思われます。若い頃から容姿にかける手間暇を惜しまなかった人は、七十代なのに四十代に見えるのでしょうが、でもなぜか老人臭が漂ってきたり、声だけがおばあさんだったりと、奇妙な現象が起こるに違いないのです。(p.151)


ここまでくると、一種悲愴感がただよう。美人論は、できれば笑って済ませる範囲が良いに決まっている。


とりわけ、連載終了にあたり、編集者を同行させて「日本海側美人一県おき説」を証明すべく、実際に現地で美人の数をカウントするのだから、読む者は唖然としてしまう。そこまで、美人にこだわらなければならないのは、美人という形容が時代のドグマになっているからにほかならない。美人という観念が構造化されているのだ。構造の外から視れば、美人などどうでもいい基準だ。


男はつらいよ 寅次郎わが道をゆく [DVD]

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正月元旦に放映された松竹映画『男はつらいよ 寅次郎わが道をゆく』(1978)では、松竹SKDが舞台となっていた。ラインダンスを踊る女性たちは美脚であるが、2006年の今日からみれば、やや太めに見えてしまう。時代や地域によって美人の基準が異なることの映像的証明資料が映画だろう。ハリウッド映画の黄金時代は、やや太めのグラマー美人だったが、近年の映画の女優はいずれも鍛え抜かれたスリムな肉体をもっている。筋肉が張っている女優は、どうみても美人の基準から外れると思うのだが、肉体の管理はアメリカ社会ではステータスシンボルにさえなっているほどだから、先端を行く女優は美の極致でなければならない。


酒井順子のこだわりの淵源はどこにあるのだろうか。『負け犬の遠吠え』でも、異常なまでに、「家庭」すなわち、結婚し、子供を持つことにこだわる。自己をも、笑いの対象として相対化している醒めた視線が、文章の背後にあることは確かだ。


負け犬の遠吠え

負け犬の遠吠え


「見る/見られる」という視線を過剰なまでに意識し、演技しつづける酒井順子とは、時代の先端に縛られた悲劇の裏返しとみることもできよう。いずれにせよ、視点を回転させることで、『負け犬』も『美人』も無化=無意味化される。酒井さんは、そのことを十分に自覚している。そうでなければ、ここまで自虐的にはなれない。


もちろん、以上は、一人の男から見た酒井順子像にすぎない。酒井さんが、この延長上で仕事をつづけることは困難だろう。このまま進むと林真理子路線を踏襲するしかない。そうではない、第三の道があることを願わないわけには行かない。