ヴィタ−ル
都市空間のなかで、孤独な男が薄暗い部屋で物思いにふけっている。彼は記憶を喪失しているようだ。自分を探すことと、記憶喪失の原因となった交通事故時に同乗していた女性が恋人であるらしいことが示される。
塚本晋也『ヴィタ−ル』(2004)は、医学生による解剖実習映画である、と書いてしまうと、『鉄男』以来の解剖的細部へのフェティシズムにとられかねないので、解剖をとおして得られる<神>の世界を描いたフィルムであると書き直しておく。
以下は、私の独断的・偏見的な一つの読み方であることをあらかじめ断っておきたい。
記憶喪失の医学生・浅野忠信が解剖実習をしていくうちに、その遺体がかつての恋人・柄本奈美であることが分かってくる。そして、肉体の解剖をとおして、あたかも、「メビウスの帯」の表から裏に達するように彼岸の恋人に出会う。
恋人との思い出は、沖縄のある島の海辺や森の中などで再現される。
この映画には、中沢新一『神の発明』の以下の文章を引用することで「メビウスの帯」の意味を理解していただけると思う。
それは切れ目の入れられた「メビウスの帯」を縫い合わせて失われた対称性の一部分を回復しようと試みて、「あの世」と「この世」を一つにつなぎ、裏と表、内部と外部の区別のできた世界をトポロジーの奇術で裏返しにし、前方にだけ進んでいく時間の矢を止めて、あたりをドリームタイムの薄明に変えてしまう(ママ)とするのです。
(中沢新一『神の発明』p.137)
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恋人・柄本奈美は沖縄の海辺でダンスを踊る、浅野忠信はその舞踏のようなダンスを観ることで、彼女と交感する。解剖=「メビウスの帯」を続行していく過程で、「あの世」の恋人への想いが浮上し、記憶が鮮明によみがえる。一時的に、「あの世」と「この世」の交錯した世界で、浅野はしばし放浪する。浅野を想う此岸の女子医学生KIKIは、彼岸の世界を覗うことができない。
彼岸にいる恋人は、あたかも「来訪神」のように、「メビウスの帯」を通じて医学生の前に現前する。二人は「ドリームタイムの薄明」を体験するのだ。世界の理不尽さは、死んだ恋人=神によって救済される。
<社会>をうまく生きられない者が、<世界>の未規定性に接触して力を獲得することなど、満天の星空に驚くことが疾うに不可能になってしまったこの都市で、果たして可能なのか。塚本晋也監督の『ヴィタ−ル』は、「然り、可能なり」と福音を告げるのだ。
(宮台真司「VITAL」パンフレット p.167)
「福音を告げる」のは、<神>以外にはありえない。つまり、このフィルムは、肉体=遺体の解剖をとおして<神>との遭遇を可能とする、換言すれば、<救済>を求めるきわめて宗教的な映画なのである。
解剖が終わり、遺族とともに斎場にて火葬が行われるシーンは、死=再生が「メビウス縫合型」の神の媒介によるものであることをラストシーンで暗示される。観る者に福音を告げているのだ。
「メビウス縫合型」と私たちが呼んでいる心の働きを表現する神は、ことばのもつ象徴機能に抵抗して、はじまりのときにはあったはずの世界の全体性というものを取り戻そうとする心の働きを示しているものです。
(中沢新一『神の発明』p.142)
『ヴィタ−ル』は、都市空間の孤独、交通事故、記憶喪失、解剖実習、火葬、献体などを映像化することで、恋人の死=再生と、主人公の記憶の回復を描いた、欠落した世界の全体性を取り戻そうとする崇高なフィルムとなっている。
『鉄男』で出発した塚本晋也の到達した地点が、『ヴィタ−ル』である。
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