知の教科書 キリスト教


ローマ法王・前法王ヨハネ・パウロ2世の死去にともなう、後任の法王の選出方法が、「コンクラーヴェ」と呼ばれることなど、今回の一連のニュースで知りえたことが多い。


知の教科書 キリスト教 (講談社選書メチエ)

知の教科書 キリスト教 (講談社選書メチエ)


そこで、キリスト教についての良質な概説書である竹下節子キリスト教 知の教科書』(講談社メチエ)を通読してみる。旧約聖書新約聖書の解説に続いて、「キーワードで考えるキリスト教」のなかには、「三位一体」「天使」「悪魔」「コンクラーヴェ」などについて、読ませる解説書になっている。
例えば、「天使」から

有名なのは少女だった聖母マリアのもとに受胎告知にやってきた大天使ガブリエル(神は力なりという意味)だ。(p.134)


そして、著名なダ・ヴィンチの『受胎告知』フィレンツェ、ウフッツィ美術館)の絵画が掲載されている。私も実際、この絵を眼前に観たことがあり、横長の絵画の右側のマリアの前にある置物が、見る角度によって異なって見える迫力と、手をかざす大天使ガブリエルの姿に圧倒されたことを想起する。宗教画としての「受胎告知」について、個人的な好みからいえば、フラ・アンジェリコの『受胎告知』(サンマルコ修道院)が最も心安らぐフレスコ画である。

天使は映画にもよく出る。1946年フランク・キャプラの『素晴らしき哉!人生』は古典だし、パオロ・パゾリーニの『テオレマ』(1968)では天使がある家庭を変容させ、ヴィム・ヴェンダースの『ベルリン 天使の詩』(1987)の天使はおじさんの姿でサーカスの娘に恋をした。(p.138)


また、「悪魔」の項目には、以下の記述がある。

中世のキリスト教的世界では、人が死んだ後に、その魂を悪魔が地獄へ持って行くか天使が天国へ持って行くかという戦いがあると信じられていた。(p.148)


キリスト教の3つの流派が205頁に図示されていて、「東方正教会ロシア正教ギリシア正教)」「ローマ・カトリック」「プロテスタント」に別かれていることが理解できる。

2000年前のユダヤ人のメシア信仰から始まったキリスト教ローマ帝国に広がっていき、ケルト人やゲルマン族とともにヨーロッパを作り上げ、現代世界のヘゲモニーのせいでえらくメジャーな宗教にも思えるが、じつは、現世利益を祈ったり怒れる神に供物を捧げて鎮めたり困った時の頼みを訴えるような普遍的にある分かりやすい宗教とはまったく異なって、独特な情緒的特色から力を汲みあげているのである。(p.224)

キリスト教とともに世界を席捲してきた「西洋の論理」はとどまるところを知らず、モノや金や市場原理によって世界をグローバル化しつづけている。「脱西洋」化したキリスト教は、多様化社会がその「普遍的な倫理」を模索するリーダーシップを取ることで、モノや金という現代の偶像崇拝に対抗し始めているだろう。(p.251)


以上、一部を紹介したが、本書からは、キリスト教についての文字どおり「眼ウロコ」な記述があり、多くの「知識」が得られる。



なお、キりスト教と資本主義については、マックス・ウェーバーの著名な『プロテンスタンティズムの倫理と資本主義の精神』*1が参考になるけれど、中沢新一によれば、

キリスト教の本質」はその深層構造のレベルで、すでに資本主義の発達を認め、称揚していたものなのですが、その潜在能力が全開されるのは、プロテスタントの改革によって、精霊の力が三位一体の枠から自由にあふれでることができなくてはなりません。近代資本主義を用意したのはカソリックでしたが、それを実現してみせたのは、プロテスタントだったわけです。(中沢新一『愛と経済のロゴス』p.180−181)


西欧の資本主義社会をつくりあげたのが、「キリスト教」であり、信仰と資本蓄積という一見矛盾しているように見えるが、三位一体の「精霊の力」のあらわれかたが、「価値の増殖」とそっくり同じであり、ラカンの「ボロメオの結び目」と類似した構造になると中沢氏は言う。


愛と経済のロゴス カイエ・ソバージュ(3) (講談社選書メチエ)

愛と経済のロゴス カイエ・ソバージュ(3) (講談社選書メチエ)


精神分析的に宗教を捉えた卓見として、

宗教は一人のパラノイアによって創設され、それを多数の神経症患者が忠実に、誠実に管理し崇めたてまつる。これが精神分析の明らかにする構造。(石澤誠一『シュレーバー回想録』解題 p.654)*2

さらに、石澤誠一の次の記述は、宗教の本質と現代社会の関係について考えさせられる。

精神分析がいわば不可能として位置づける宗教は、価値観の多様性が容認されている地盤ではなおさらのこと、思い込みの自由、幻想の際限なき自由を糧として繁茂する。誰もが自らを思うように生きー他者によって操作され、そう思っていると思わされて生きー、それぞれが勝手に振舞うことが許容される状態においては、ホッブスが記述したような「万人の万人に対する戦い」なる事態が必然的に内包されている。こうした状況において<助けのなさ>にある「迷える仔羊」としての神経症者は、一人のパラノイアの創設する価値感の一体系に寄りすがり、自らの生きる指針とすることが、主体の本来的な怠惰の正当化の観点から最も経済的であることになる。(『翻訳としての人間』p.19)


上記・石澤氏の指摘する意味において、21世紀のアメリカをはじめとする欧米社会全体が罹っている病理を象徴している言説ではないだろうか。もちろん、日本も例外ではありえない。


翻訳としての人間―フロイト=ラカン精神分析の視座

翻訳としての人間―フロイト=ラカン精神分析の視座



■補記(2005年4月28日)

2005年4月18日の「日乗」は、映画『コンスタンティン』についての感想めいた「覚書」を書いていた。この映画について、傑作『マトリックス』と比較して、率直に書いたつもりが、とんでもない方向から、「反論」があった。それ自体は、「たかが映画」*3のことであり、どうでもいいのだが、もともと面白くない映画について、反論者と「論争」することの阿呆らしさと徒労を感じたので、当日分を削除した。反論者と私の間には「ルールが共有されていない」(北田暁大)。ただし、この映画について言いたいことは、冒頭に記されているので、その部分と「映画の見方」について触れた箇所のみ、以下に残しておく。

*1:ISBN:4624011252

*2:ISBN:4582764517

*3:ヒッチコックは、『山羊座の下に』を撮影中、主演のイングリッド・バーグマンに「イングリッド、たかが映画じゃないか」と言った有名な逸話がある。