アビエイター


マーティン・スコセッシ監督作品『アビエイター』(2004、米)を観た。ケイト・ブランシェットは、実在人物でしかもアカデミー賞主演女優賞4回、スペンサー・トレイシーとの生涯を通じた恋人関係、自立する女性の目標でもあるキャサリーン・ヘプバーン役で、あまりにも偉大ともいえる人物をいかに演じているかが、もっとも興味深い関心事だった。


期待以上の見事なヘプバーンだった。ケイト・ブランシェットは、『エリザベス』以来気にかかる女優であったが、その後、どちらかといえば脇役が多く華やかな主演タイプではないことは承知していたけれど、今回の入魂の演技で助演女優賞は、当然といえば、しかりであろう。


早口でまくしたてるような口調や、やや尊大とも思える態度は、ヘプバーンそのものだった。とりわけ、彼女の家族とハワード・ヒューズレオナルド・ディカプリオ)が対面するシーンは、個性の強い人たちとの距離のとり方の機微に触れていて、このシーンだけで、この映画のすべてが分かってしまうほどであった。いわば芸術家肌のヘプバーン一家と、実業家肌のヒューズの決定的なすれ違いが、なんともおかしく、ユーモアまじりに描かれる。ハワード・ヒューズは、金儲けのために仕事をしているのではないというシーンは、後の上院公聴会シーンに連なり、伏線的にも秀逸なシークェンスである。


ハワード・ヒューズが強度の強迫神経症であったことで、徐々に自己崩壊に向かって行くわけだが、トイレで何度も手を洗うシーンや、自室に閉じこもり同じ行為を反復するシーンなど、極端にその性癖を際立たせるのは、若きロバート・デ・ニーロであれば、それなりに説得的な光景になっていただろう。


前作『ギャング・オブ・ニューヨーク』から、スコセッシとディカプリオのコンビが始まったわけだが、スクリーンに出ているだけで圧倒的存在感のある個性的俳優デ・ニーロにたいして、いわばアイドル的な存在であるディカプリオは、どこかに齟齬感を抱いてしまうのは避けられない。


伝説的映画『地獄の天使』を撮るシーンや、『ならず者』の一部実写などを眼前にすることでの映画史への出会いは、悪くはない。いや、それ以上にハワード・ヒューズが飛行機業界で自己の夢の実現に向けて自己主張を押し通すシーンなどは、いかにも実業家としての異様さが露呈されている。普通の神経では、TWAの買収や軍事産業への接近など出来まい。一方でアメリカ資本主義を露悪的に描き、また他方では、ハリウッド映画全盛期の異様な雰囲気を再現しているところなど、ニューヨーク派のスコセッシの面目躍如たるところであろう。


3時間近い上映時間にも最後まで、ひきつける魅力は確かにある。しかし、観終わって、印象に残るのは、ケイト・ブランシェットのヘプバーンだったというのでは、もの足りない。


いくら伝記映画流行りでも、ハワード・ヒューズをディカプリオが演じるのは、ちと無理がある。ベビーフェイスにひげは似合わない。同じように髭をたくわえたエロール・フリンに扮したジュード・ロウの方が皮肉なことにはるかに貫禄があった。


ディカプリオが、飛行機のコックピットに座るときの至福の表情は自然であり、ビジネスや映画界での対人関係上は固い表情であったが、ディカプリオらしさの自然体になっている。また、上院公聴会で飛行機つくりのために空軍から援助金を貰ったことを認め、それ以上に私費で製作していること、また訴えた上院議員と業者との癒着を逆に告発するシーンなどは、爽快さを感じさせるシークェンスであった。


しかしながら、ディカプリオは、ハワード・ヒューズを演じるにはどうみても、無理がある。ディカプリオは、スピルバーグキャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』での実在の詐欺師役は、見事にはまっていたし、アイドルから脱皮する方向は自分のキャタクターに合ったものを選択すべきだ。


スコセッシは、職人監督でもないし、芸術派でもない、どちらかといえば社会派的な監督だ。デ・ニーロのような強烈な個性のある俳優を起用すべきで、この先、ディカプリオとコンビを組む予定らしいが、出来上がった作品からいえば、スコセッシ本来のスタイル、つまり原点に戻って撮るべき作品を再検討すべき時期ではあるまいか。黒澤明が、三船敏郎と決別したあと、黒澤らしさが消失してしまったという前例がある。


監督と俳優のコンビネーションは、芸術派でもなく職人でもないスコセッシにとっては映画の完成度を左右する。マーティン・スコセッシには、『タクシードライバー』や『レイジングブル』のあの輝きをとり戻して欲しいと願うのは、多くのスコセッシ=デ・ニーロファンに共通するものではないだろうか。


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