龍樹『中論』(1)


黒崎宏『ウィトゲンシュタインから龍樹へ 私説「中論」』*1を読了した。うーん、何というか、宮崎哲弥のような「書評」はとても書くことができないが、別の意味での収穫があった。

『中論』の核心は、<生・滅・常・一・異・去・来>を主張する形而上学的(存在論的)議論を根底から否定することにある。それが、「不生・不滅・不常・不一・不異・不去・不来」の主張である。「帰教序」(p019)


二十五章の偈について、註釈・解釈を丁寧に進めて行く。


第一章  縁(四縁)の考察

事物は、縁(四縁)から生じること(発生)も、縁(四縁)から現れ出ること(出現)も、ない。また事物は、縁(四縁)が変化して現れ出ること(変成)もない。(p036)

第二章  運動(去ること)の考察

「先ず、<去る主体>と<去ること>と<行くべきところ>があって、その上で、<去る主体>は、<去ること>によって<行くべきところ>に行く」というのではないのである。そのような原子論的(要素論的)思考こそ、竜樹の最も忌み嫌ったものである。(p049)

第三章  (眼などの)認識能力(根)の考察

要するに、「五蘊は皆空なり」なのである。したがって、身と心によって構成された<人間>なるものも、空なのである。(p054)

第五章  要素(界)の考察

地・水・火・風・空(虚空)・識のすべてが「空」なのである。「一切皆空」という意味で空、なのである。(p062)

第八章  行為(業)と行為主体の考察

ここで特に注目すべきは「部分と全体」の場合である。・・・(中略)・・・<全体>なくして<部分>なし、なのであり、ここにおいて「原子論」は完全に否定される。
・・・(中略)・・・
「意味」とは、言語の外にある何らかのもの(対象)ではなく、言語ゲームの中で説明されるもの、なのである。(p084−085)

第九章  先行するものの考察

文章をそれを構成する単語一つ一つに(原子論的に)分解してはならないのである。この反原子論的思考こそ、まさに後期ウィトゲンシュタインのものである。(p092)

第十一章  前後の究極に関する考察

あらゆるものに前の究極(本当のはじまり)が存在しないのみならず、同様に、あらゆるものに後の究極(本当のおわり)も存在しないのである。
(p104)

本日はここまで。