人間自身


池田晶子さんの遺作『人間自身 考えることに終わりなく』(新潮社、2007)は、池田さんの死を知るゆえ、感慨深いものがある。拾い読みをしながら思うに、池田氏は、本質的・根源的に「あること(存在)」について、考え続けた稀有の哲人であった。「生きている者はかならず死ぬ。すべての人間の死因は生まれたことにある。」


人間自身―考えることに終わりなく

人間自身―考えることに終わりなく


いまにして思えば池田さんの資質がもっとも良く出ているのは、『考える人 口伝西洋哲学史』であったことに気づく。あらためて、この人の凄さを思い知らされた。

自分の精神とは世界精神であることを知らずに、どうやって哲学史など理解できるつもりでいるのか、驚くべき愚直さである。(p.21)


と語る(口伝)池田さんは、哲学とは「自分で考えること」と繰り返し主張している。ヘーゲルを理解していた池田さんにとって、「哲学史」は、ギリシア哲学から始まる通常の史的記述とは異なり、哲学の問題とは何か、「騒ぎのもと」でまずヘーゲルをとりあげ上記引用のように「世界精神」を分かるか、分からないかによって著者への理解度が異なることをあらかじめ宣言される。



ヘーゲルからはじめ、マルクスハイデガーから現代哲学のフーコーデリダにいたるのが第一章。池田さんはヘーゲルがわかる、「分かる」ことの原点にヘーゲルがいる。

「ことの起こり」として、ソクラテス以前からプラトンアリストテレスまでが第二章に位置する。つまり、まず現代の哲学的課題と現状を「解釈」し、「騒ぎのもと」の問題点を指摘し、続いて、哲学の起源に帰り、何が問題なのかの問いを立てているのだ。

「処世術」として、ニーチェからウィトゲンシュタインまで。「学問はお嫌い?」と題して、デカルトからカントへの近代哲学へ。こんな按配に、哲学史を池田流に再構築している。『考える人 口伝西洋哲学史』には、池田さんの考えの全てが提示されていたのだった。


遺作となった『人間自身』は、コラム的な短いエッセイだが、池田さん固有の考えが披瀝されている。

結局のところ、「人生とは何か」とは、「生死とは何か」になるのは決まっている。本質つまり本当のことを知りたいと考える私は、もうずいぶん長いこと、このことを考えている。/考えるけれども、考えるほどにわからない。というのは、じつは正確ではない。わからないということが、いよいよはっきりわかるのである。(p.32「お釈迦さまでも」)


まるでソクラテスのことばのように聴こえるではないか。もうひとつ「性欲を昇華する哲学者」から引用しよう。

本当に哲学的にものを考える人間にとって、金と女とは、実は欲望の対象にはなり得ない。(中略)考える人間が真実に欲望するのは、まさしくその「真実」、それらこの世的現象の一切合切が本当は「何であるのか」、これを知ることに尽きるのである。(p.92)

哲学者は、性欲を大脳で昇華するのである。あえて科学的に説明すると、そういうことだと私は思っている。私は女だけれども、これは実感としてわかりますね。生命として存在する限り、人間は必ず。何らかの欲動を所有しているけれども、考える人間は、考えることに、その全エネルギーを注ぎ込む。ある意味で、全世界がそこに出現するのである。その快感を、「神的恍惚」とプラトンは言ったが、これもこの世的快楽を超えるものと言えるだろう。(中略)世の中には、自分と違った理屈で生きている人間もいるのである。そう思っていた方が、人生は豊かになる。(p.92-93)


「金と女」あるいは「色と欲」をいくら追求・体験しても、「この世」的快楽は瞬時得られるけれど、永遠の「神的恍惚」は得られない。別言すれば「色即是空空即是色、受想行識亦復如是」(『仏説摩訶般若波羅蜜多心経』)なのである。


オン!

オン!


池田さんの文章は、世評的なエッセイより、「哲学」そのものを考える文章*1が時間の経過を超えるだろうし、思想家論としては、たぶん『埴谷雄高論』と『小林秀雄への手紙』が残ることになると思う。敬意を込めて再度、池田晶子さんに合掌。


新・考えるヒント

新・考えるヒント

*1:その代表作が『考える人 口伝西洋哲学史』であると確信する。